江戸時代(えどじだい)の旅人(たびびと)
江戸時代(えどじだい)になると歴史上(れきしじょう)の人物(じんぶつ)がたくさん亀山(かめやま)を通(とお)っています。この中(なか)でも紀行文(きこうぶん)や亀山(かめやま)で作品(さくひん)を残(のこ)した人(ひと)だけをとりあげてみました。
大田南畝(おおたなんぽ)
江戸時代(えどじだい)後期(こうき)の文化人(ぶんかじん)で、幕府(ばくふ)の役人(やくにん)でもあります。太田蜀山人(おおたしょくさんじん)等(とう)の名前(なまえ)で文学(ぶんがく)を中心(ちゅうしん)に活躍(かつやく)しました。1801年(ねん)(享和(きょうわ)元年(がんねん))の4月(がつ)7日(か)に亀山(かめやま)を通(とお)って関(せき)にとまり、翌日(よくじつ)に鈴鹿峠(すずかとうげ)をこえています。この旅(たび)の紀行文(きこうぶん)である「改元紀行(かいげんきこう)」に亀山(かめやま)には豆腐屋(とうふや)が多(おお)いこと、ちょうど花(はな)が咲(さ)いていた「えぞ桜(ざくら)」を見(み)にいったことなどが記(しる)されています。
シーボルト
シーボルトは、ドイツ生(う)まれの医師(いし)で、1826年(ねん)(文政(ぶんせい)9年(ねん))オランダ商館長(しょうかんちょう)とともに長崎(ながさき)から江戸(えど)まで向(む)かう途中(とちゅう)亀山(かめやま)を通(とお)っています。この時(とき)、坂下(さかした)でオオサンショウウオを手(て)に入(い)れたり、亀山城(かめやまじょう)や筆捨山(ふですてやま)のようすを書(か)き残(のこ)したりしています。
オールコック
イギリス人(じん)の外交官(がいこうかん)で、公使(こうし)として日本(にほん)に来(き)ていました。1861年(ねん)(文久(ぶんきゅう)元年(がんねん))4月(がつ)から5月(がつ)にかけて大坂(おおさか)から江戸(えど)へ向(む)かい、加太(かぶと)から亀山(かめやま)を通(とお)っています。亀山城(かめやまじょう)のことを「たいへん大(おお)きな堀(ほり)と狭間(はざま)のある塀(へい)をもうけた城(しろ)」と書(か)き残(のこ)しています。富士山(ふじさん)に最初(さいしょ)にのぼった外国人(がいこくじん)としても知(し)られています。
松尾芭蕉(まつおばしょう)
伊賀(いが)(伊賀市(いがし))うまれの俳人(はいじん)で、俳句(はいく)の基礎(きそ)を作(つく)り上(あ)げました。俳諧集(はいかいしゅう)である「猿蓑(さるみの)」に「発心(ほっしん)のはじめにこゆる鈴鹿山(すずかやま)」の句(く)があります。また、「ひさご」には「大岡寺(たいこうじ)縄手(なわて)吹(ふ)き通(とお)し」の句(く)があります。
林羅山(はやしらざん)
江戸時代(えどじだい)はじめの儒学者(じゅがくしゃ)で、1616年(ねん)(元和(げんな)2年(ねん))に江戸(えど)から京都(きょうと)に向(む)かう途中(とちゅう)でこの地域(ちいき)を通(とお)り、「八十瀬川(やそせがわ)」「鈴鹿明神(すずかみょうじん)」(片山神社(かたやまじんじゃ))、峠(とうげ)の山賊(さんぞく)など文学(ぶんがく)にみられる鈴鹿山(すずかやま)のことを思(おも)い起(お)こしています。
小堀遠州(こぼりえんしゅう)
1621年(ねん)(元和(げんな)7年(ねん))10月(がつ)2日(か)に、亀山(かめやま)から関(せき)を通(とお)り、坂下(さかした)にとまっています。関(せき)ではお化粧(けしょう)をした女(おんな)の人(ひと)が旅人(たびびと)を店(みせ)に呼(よ)び込(こ)んでいるようすをおもしろおかしく書(か)き記(しる)しています。
アーネスト・サトウ
イギリス人(じん)の外交官(がいこうかん)で、1863年(ねん)(文久(ぶんきゅう)3年(ねん))5月(がつ)22日(にち)に鈴鹿峠(すずかとうげ)をこえて亀山(かめやま)を通(とお)っています。亀山(かめやま)では、この地域(ちいき)には変(か)わった乗(の)り物(もの)があるとか、サトウの行列(ぎょうれつ)を見学(けんがく)に来(き)たおおぜいの人々(ひとびと)の中(なか)にきれいな女(おんな)の人(ひと)がいることなどを書(か)き残(のこ)しています。

![[古典(こてん)に出(で)てくる亀山(かめやま)]むかしから、たくさんの人々(ひとびと)が行(ゆ)き来(き)する亀山(かめやま)には、旅人(たびびと)が見(み)たり、聞(き)いたりしたことが歌(うた)や日記(にっき)などさまざまな文学作品(ぶんがくさくひん)の中(なか)にとりあげられてきました。](../img/text_01.gif)














