亀山市立昼生小学校6年生出前授業!
「ペリー来航以降の亀山」
平成29年1月19日(木)に亀山市立昼生小学校へ出前授業に行きました。
市内に残る資料を元にペリーが来航したころから日中戦争のころまでの亀山について、社会科の授業で学んだことを振り返りながら授業を行いました。
<黒船来航 亀山城主石川総禄 も関心を持っていた>
ペリー来航時の様子を描いた絵 | ペリーとアダムスの肖像画 |
2回目の来航時の様子 | ペリーの子どもが同席していた応接場 |
幕府も大名も大きな関心を持っていた黒船の来航。幕府への報告書に描かれた絵をいろいろな人が写しました。亀山城主石川総禄もその絵が見たいというので、家臣に写させました。その絵には、嘉永七年(1854)に浦賀にやってきたペリー艦隊の船が1隻ごとに描かれたり、応接場所の様子などが描かれたりしていました。また、ペリーが徳川将軍や大名へ献上した蒸気機関車の動く模型や線路・雷電電信機、「馬甲剣」という武器等は、当時のアメリカの強さを感じさせるものでした。 |
<明治政府は大変忙しい>
明治時代は今から何年前? | 川合村に掲げられた五傍の掲示 |
土地の所有者を証明する地券 | 江戸と明治では治め方が変わった |
今につながる明治時代の村や町 | 明治38年鈴鹿郡学校パズルを楽しむ |
明治政府は新しい政策を次々と進めました。 藩を廃止し県を設置しました。現在の三重県になるまでに何度も県の統廃合や名称変更がありました。 戸籍法が制定され、新しく戸籍がつくられ宗旨人別帳が廃止されました。 江戸時代、米にかけていた税金(年貢)を改め、土地に税金をかけることとし、土地の所有者を明確にするための「地券」を発行しました。 国民皆学を目指して学制を制定しました。明治5年創設された下ノ庄学校が、現在の昼生小学校のもととなる学校です。 次から次へと政策の変更をする明治政府はとにかく忙しかった。 |
<戦争をしていたころの亀山>
昼生小学校で行われた村葬 | 学校のアルバムで戦死者の名前発見 |
戦争をしていたころの人々のくらしや川崎小学校区にあった北伊勢飛行場のことについてパネルや画像を提示して説明しました。 校区内のお寺で墓石を観察して戦死者を調べていた子どもたちは、昼生の人の日章旗や千人針などのパネルを見て、戦争は昼生にも大きな影響を与えていたことを感じていました。 |
学校に残っている「郷土教育資料」 | 当時の流通品がわかるラベル |
学校に残っている「郷土教育資料」に集められた日用品や食料品のラベルを見ていると、「このようなものを使っていたのだ。」「同じものでも種類が違う。」いろんなことを発見していました。身近な小さなものを集めることは、その当時の生活の様子を知る手がかりになることを実感した子どもたちです。 |
児童の感想から
- 一番おどろいたことは昼生が亀山じゃなくて久居県だったことです。それに今の三重県に県が10個ぐらいあったこともすごくおどろきました。
- 一番おどろいたことは板垣退助さんが亀山町に泊まったことです。板垣退助さんはとても有名人だからです。その次におどろいたのは、ペリーの子どもも日本に来ていたことです。
- おどろいたことは、「亀山市立昼生小学校」になるまでに何回も名前を変えたことです。最初は「下ノ庄学校」次は「江社学校」その次は「篤信学校」・・・・校舎の移動も繰り返し…途中からついていけなくなっちゃいました。そう思うと昼生小は100年以上の歴史がある学校だとわかって「すごい!!」と思いました。
- この授業で一番おどろいたことはペリーに子孫がいたことと、通訳さんがいろいろいたことです。 絵巻物のようなものに昔の人たちは欠かさず記録していたことに関心を持ちました。
<実物資料>
「亜墨利加軍道並応接場絵図」(画像)
「米利幹船真図」(画像)
五榜の掲示(画像)
「文化九年宗旨御改帳」(画像)
明治12年発行地券(実物)
明治21年発行地券(実物)
昼生小学校の歴史(表)
明治23年から明治32年まで板垣退助来亀、来関記事
伊勢新聞より(表)
亀山市内の鉄道のはじまり(画像)
北伊勢飛行場門柱(画像)
北伊勢飛行場兵舎を利用した川崎小学校(画像)
昭和22年アメリカ軍撮影北伊勢飛行場空中写真(画像)
「戦争中の人々のくらし」パネル(歴博貸出ユニットA-11)
昔の地名パズル(歴博貸出ユニットA-16)
鈴鹿郡地図パズル(歴博貸出ユニットA-16)
明治38年鈴鹿郡学校パズル
昼生尋常高等小学校作成「郷土教育資料」2巻、4巻
(亀山市立昼生小学校所蔵 実物)