亀山市立野登小学校4年生社会科出前授業
    「地いきのはってんにつくした人びと〜田をひらく〜」


 平成25年11月25日(月)亀山市立野登小学校4年生へ出前授業に行きました。  先人が苦労を重ねて田を拓いてきたことを学ぶことを通して、地域を見直し、地域への愛着を育てていく一助になるよう学習を進めました。

<米の始まり>
壷  川崎の発掘で見つかった壷です。
 2000年くらい前の物です。
 何につかった物でしょう。

 花瓶? ペン立て? 貯金箱?……

 実は、米の籾を入れて保存した物でした。
 2000年前には、亀山でも米を作っていた証拠です。
<何に使った物でしょう>

 辺法寺の発掘で出てきた物です。

 骨? 葉っぱ? 歯? 魚?……

 木をつけて使ったと言うことから、
 槍の先を想像しましたが、大きさから
 石で作られた矢の先(矢じり)と言うことが
 わかりました。
矢じり
<木をつけて使っていました。>
土器の破片
 辺法寺の発掘で見つかった土器の破片です。
 「よく見て!」
 「川崎の発掘で見つかった壷と同じだね。」

 この辺法寺でも2000年前から米を作っていた証拠です。この辺法寺でも2000年前から米を作っていた証拠です。
<これも同じ>


 9000年くらい前に中国で米を最初に食べたこと、日本で最初に食べたのが2500年くらい前だったこと、中国から日本に伝わるのに6500年もかかったこと、驚きの連続で授業がスタートしました。

<田んぼの始まり>
どこに田を? まずは小さな田
<どこに田をつくる?> <まずは平らな所に
    小さな田を作ったよ>
少しずつ 土を入れて だんだん田を 大きくします
茶色の部分の土を掘って下の部分に
入れると、小さいけれど平らな田が
できたね。
次の年は茶色の部分に土を入れて少し大きな田になったね。 次の年も茶色の部分に土を入れてまた少し大きな田になったね。


最初の田は、両手を広げたくらいの幅の田んぼだったことを知ると、
「ちっちゃ!」
「機械入らへんや。」
「10本くらいしか植えられんのとちがう?」
 という感想を持った子どもたちでした。少しずつ少しずつ田を大きくしていったことを理解していきました。坂本の棚田の段差が高いことも納得しました。
間近で 見ました
<これって本物?もようがある。> <黒こげやけど、米つぶが見える>


 休み時間には発掘で見つかった土器の破片や米が焦げて墨になっている物を間近に見て、さわりました。

<本当に田んぼ?>
証拠  田んぼだったという証拠は
 <証拠1>
 稲の葉っぱはちくちくします。そのちくちくするのは、葉の中に含まれているガラスの成分です。この土地の土からそのガラスの成分が見つかっているから、米を作っていたことが分かりました。何につかった物でしょう。
 <証拠2>
 足あとが見つかったからです。
 でも、何百年も前の足あとが見つかったのは、奇跡です。
<田んぼだった証拠だよ>

<どうして足あとがわかるの?>

足あと  田の土をとったら砂の層があり、その砂を1m程どけたら、足あとが見つかりました。
たまたま田を歩いて作業をした直後に洪水で田に砂が流れ込んだため足あとの部分にも砂が入って形が残ったのです。
 田植えなら後ろ向きに進むので、かかとの方が深くなります。発見された足あとは、つま先の方が深くなっているので前向きに歩いていた足あとです。草取りしたときの足あとでしょう。
<足の大きさは17pくらいです>
廊下で 歩いたよ
<500年前の人の足あとの上を歩くよ>
<足をそろえて立っている所もあるね>


 足をそろえているのはちょっと休憩しているのかも。
 横向きに足あとが続くのはそこにあぜがあったからです。
 足あとからたくさんのことがわかることにまた驚き、感心していました。
 この年は植えた苗は全滅だっただろうから、お米が少ししかとれなかったことでしょう。昔の人の大変さが伝わってきました。
 大洪水で田でなくなった辺りは、「東川原」「下川原」といわれています。砂が入って川原のようになってしまいました。
 39年前の「49災」の時もこの辺りは大変でした。何百年に1度という水害で、田に砂がたくさん入ってしまい、砂をどけて田に戻したことを話すと、そのことを家の人に聞いたという子もいました。

<田をひらいた人びと>

出土品
 辺法寺の田を拓いた人の名前はわかっていません。
 でも、ちょっとずつ田を作り、少しずつ大きくし、お米を作っていた人のお墓が心光寺にあります。
 少しずつ田を広げていった人がいた証拠です。
<この茶碗を使っていた人たちが田を作っていた>

 先人の工夫と苦労を知り、改めて野登地区を見つめる子どもたちでした。

提示資料
  • 縄文土器片(網中遺跡)
  • 石鏃(網中遺跡)
  • 弥生土器(壺:網中遺跡・地蔵僧遺跡)
  • 土師器鍋(網中遺跡)
  • 炭化米(亀山城跡)
  • 中世水田跡足跡原寸平面図(網中遺跡)
  • 中世水田跡足跡石膏型(網中遺跡)
  • 昭和49年水害写真
  • 網中遺跡水田跡発掘調査写真
  • 昭和21年米軍撮影空中写真

子どもたちの感想から
  • 今日は最初にお米を作ったことから始まりました。そして野登の田んぼは、辺法寺で2000年前には米が作られていて、田を少しずつ広げて、とれる米の量を増やしたことがわかりました。田を広げるためには野登の人たちは、苦労と工夫を重ねていたことがわかりました。今の田のすがたになるまで、1000年かかっていること、昔にもこう水があって、田にもどすのにも苦労していたこと、名前もわからないたくさんの人たちが田のために苦労していたことがわかりました。
  • はじめの田んぼは、学校の机と同じぐらい小さい田んぼだったことがわかりました。昔にこう水があって、また新しい田んぼを上につくり、その田んぼを「新田」と言ったことも分かりました。米は中国から6500年かけて日本に来たことが分かりました。私はもともと日本にあったと思っていたし、中国から来たとは思いませんでした。辺法寺で2000年前にはもう米を作っていたことが分かりました。矢の先やいろいろな物を持ってきてくれてありがとうございます。また、歴史博物館にも行ってみたいと思います。ありがとうございます。
  • わたしは亀山で2000年前にお米が作られていたことを初めて知りました。わたしの家ではお米を作っています。わたしの家の田んぼは山の近くではなく、川の近くで作っているので、平らになっています。むかしの人はすごく苦労をしていることが分かりました。今は機械があってすごく使いやすくていいです。むかしはこう水があって田んぼにもどすのには苦労していたことがわかりました。坂本の棚田はすごくきれいだからすごいと思いました。むかしのものをいっぱいさわったりできたので、すごく楽しかったです。今日はいろいろなことを教えていただきありがとうございました。



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