亀山人物伝(かめやまじんぶつでん)
亀山市(かめやまし)の歴史(れきし)にかかわるさまざまな人(ひと)について調(しら)べてみましょう。
山崎雪柳軒(やまざき せつりゅうけん)
150年ほど前の剣術家で、江戸
(えど)で伊庭道場
(いばどうじょう)に入り、心形刀流
(しんぎょうとうりゅう)の修業をつみました。1864年に亀山に道場を開き、藩主をはじめ武士たちに心形刀流を教えました。武士の時代が終わった後も心形刀流を伝えることに力をつくしました。お墓は宗英寺
(そうえいじ)(南野町)に、記念碑が多門櫓
(たもんやぐら)(本丸町)の前にあります。
黒田寛一郎(くろだ かんいちろう)
150年ほど前の亀山藩の武士で、家老の近藤鐸山
(こんどう たくざん)のもと、幕府に反対する人々と深い関係をきずき、藩の政治改革をおしすすめました。寛一郎をこころよく思っていなかった人々によってころされました。お墓は法因寺
(ほういんじ)(東町1丁目)に、記念碑が多門櫓
(たもんやぐら)(本丸町)の前にあります。
橘糸重(たちばな いとえ)
100年ほど前の音楽家で南崎(南崎町)の生まれで、生まれてすぐに父をなくし、1さいのときに家族とともに東京へうつりました。。東京音楽学校をトップで卒業した後はピアニストとして活躍し1901年に母校の先生となりました。わが国の芸術や文化に力をつくし、1937年には芸術院会員に選ばれました。また、歌人の佐々木弘綱
(ささき ひろつな)の教えをうけ、歌人としても知られています。
宮内黙蔵(みやうちもくぞう)
100年ほど前の教育者で、若くして亀山藩の武士のための学校である明倫舎
(めいりんしゃ)の先生となり、その後は津中学校(現在の津高校)の先生から、東京の國學院大学
(こくがくいんだいがく)の先生となりました。三重県の歴史などをについての「伊勢名勝志」という本をかきのこしています。
山田木水(やまだ しげお)
80年ほど前の歴史研究家で、川崎小学校の校長から、亀山神社の神主と亀山町立図書館長となり、1959年に亀山の歴史ついてのまとめた「亀山地方郷土史」を書きしるしました。
服部四郎(はっとり しろう)
東町のうまれの学者で、世界のことばについての研究
(言語学:げんごがく)で世界的に知られています。日本語がどのようにうまれたのかを考えるため、アジアのさまざまなことばについてしらべました。1983年に文化勲章
(ぶんかくんしょう)をうけました。
田中音吉(たなか おときち)
120年ほど前の実業家
(じつぎょうか)で、1887年に田中製絲場
(せいしじょう)をはじめ、この地域に生糸産業に力をそそぎました。また、道を通る人々のために石でできた道標
(みちしるべ)をたくさんきふするなど、地域のためにつくしました。
吉澤儀造(よしざわ ぎぞう)
関町中町生まれの洋画家で、東京の不同舎
(ふどうしゃ)で絵を学び、正確なデッサンや豊かな色づかいで将来を期待されていましたが、わずか34さいでなくなりました。作品の多くは小杉放菴記念日光美術館
(こすぎほうあんきねんにっこうびじゅつかん)(栃木県日光市)にのこされています。
渥美契縁(あつみ かいえん)
法因寺
(ほういんじ)(東町1丁目)うまれの僧で、1876年に東本願寺
(ひがしほんがんじ)(京都市)で重い役につき、仏教の近代化に力をつくしました。仏教についての本もたくさん書きあらわしています。
石山覚湛(いしやま かくたん)
150年ほど前の僧で、西盛寺
(さいせいじ:楠平尾町)から、1878年に本山の西教寺
(さいきょうじ)(滋賀県大津市)第33代の貫主
(かんしゅ)(一番えらい僧)となりました。時代が大きく変わる中で仏教のたてなおしに力をつくしました。
伊藤忠孝(いとう ただたか)
100年ほど前の教育家で、1906年に川崎村(川崎町)に、神主や学校の先生を育てるために伊勢国学館
(いせこくがくかん)という学校をつくり、そのさいしょの校長となりました。伊勢国学館は1933年に閉校しています。
榊原一廣(さかきばら かずひろ)
南野(南野町)うまれの洋画家で、京都の浅井忠
(あさい ちゅう)のもとで絵を学びました。ヨーロッパへの留学して関西地方を中心にかつやくしました。
衣笠貞之助(きぬがさ ていのすけ)
東町(本町2丁目)うまれの映画監督
(えいがかんとく)で、本当の名まえは小亀貞之助
(こがめ ていのすけ)といいます。はじめは、劇
(げき)の俳優
(はいゆう)してかつやくし、その後映画の世界に入りました。1920年からは映画監督として数多くの作品を発表しました。1953年「地獄門」で日本人ではじめてカンヌ映画祭グランプリを受賞しました。
江戸川乱歩(えどがわ らんぽ)
わが国を代表する推理作家
(すいりさっか)で、名張(名張市)の生まれです。父の仕事のために1さいから3さいまで亀山ですごしました。亀山では市ヶ坂(市ヶ坂町)と南崎(南崎町)に住んでいました。
志賀直哉(しが なおや)
「小説の神様」とよばれた作家で、母が亀山の生まれです。代表作の「暗夜行路」
(あんやこうろ)において主人公が母の生まれた町をみるために亀山をおとずれたときのようすがえがかれています。1949年に文化勲章
(ぶんかくんしょう)を受賞しています。
三谷耕一(みたに こういち)
100年ほど前の陶芸家。1906年に窯
(かま)をひらいて、関万古
(せきばんこ)とよばれる焼物をつくりました。関万古は新しいデザインが評判となりましたが、三谷耕一の後は続きませんでした。
今井景樹(いまい けいじゅ)
関町古裏(関町木崎)生まれの日本画家で、京都の今尾景年
(いまお けいねん)のもとで絵を学びました。植物は鳥などの絵をとくいとし、多くの作品をのこしています。
伊藤百川(いとう ひゃくせん)
亀田村(亀田町)生まれの日本画家。京都で絵を学び、花や鳥・動物の絵を得意としました。
尾崎隆(おざき たかし)
北町生まれの登山家で、1980年に世界で初めてエベレスト(8,848m)うの北かべから登ることに成功しました。1986年に第1回の植村直己冒険賞
(うえむらなおみぼうけんしょう)を受賞しています。2011年エベレスト登山中にそうなんしてなくなりました。