亀山こども歴史館トップページ 日本(にほん)の歴史(れきし)の中(なか)の亀山(かめやま)亀山人物伝(かめやまじんぶつでん)

[日本(にほん)の歴史(れきし)の中(なか)の亀山(かめやま)]東日本(ひがしにほん)と西日本(にしにほん)の境(さかい)にあたる亀山市域(かめやましいき)は、日本(にほん)の歴史(れきし)の重要(じゅうよう)な場面(ばめん)で、大(だい)なくかかわりを持(も)っています。その亀山市(かめやまし)の歴史(れきし)を時代(じだい)ごとに追(お)ってみることにしましょう。

亀山人物伝(かめやまじんぶつでん)

亀山市(かめやまし)の歴史(れきし)にかかわるさまざまな人(ひと)について調(しら)べてみましょう。

松平忠明(まつだいら ただあきら)

徳川家康(とくがわ いえやす)の孫で、1610年に三河作手(みかわつくで:愛知県新城市)から第三代めの亀山城主となりました。1614年の大坂の陣でてがらをたて、1615年に大坂城主となり、戦いで焼け野原となった大坂の復興に力をつくしました。亀山城主の時に、江ヶ室八幡社(江ケ室町)を羽若(羽若町)から現在の場所に移しています。

藤原国助(ふじわらの くにすけ)

400年ほど前に活躍した刀かじで、松平忠明(まつだいら ただあき)の家来でしたが、京都の刀かじの堀川国広(ほりかわ くにひろ)の弟子となり、河内守国助(かわちのかみくにすけ)を名のりました。松平忠明が大坂城主となると大坂に移り住んで刀を作りました。。弟の石見守国助(いわみのかみくにすけ)はのちに伊勢神戸(いせかんべ)(鈴鹿市神戸)に移り住んでいます。

三宅康信(みやけ やすのぶ)

1620年に三河挙母(みかわころも:愛知県豊田市)から第四代めの亀山城主となりました。その直後に皇室(こうしつ)にとつぐ徳川和子(とくがわ まさこ)が京都へ向かうとちゅうで亀山城でおもてなしをしています。1631年に亀山城でなくなっています。

三宅康盛(みやけ やすもり)

第五代めの亀山城主で、父の三宅康信がなくなったあと、1632年に亀山城主となりました。1635年に常陸新治(ひたちにいばり:茨城県石岡市付近)へ移されています。たいへんな力持ちであったとされます。

清香院(せいこういん)

三宅康信(みやけ やすもり)の妻で、康盛の母です。康信より先に亀山でなくなりました。善導寺(ぜんどうじ)(西町)にお墓があります。

徳川和子(とくがわ まさこ)

徳川秀忠(とくがわ ひでただ)のむすめで、後水尾天皇(ごみずのおてんのう)にとつぎ明正天皇(めいしょうてんのう:女性天皇)を生みました。1620年に皇室へおこしいれの時に亀山城にとまっています。

中江藤樹(なかえ とうじゅ)

350年ほど前の中国に古くからある教え(儒教(じゅきょう))の学者で、近江国小川村(おうみのくにおがわむら)(滋賀県高島市)の生まれで、ふるさとで塾をひらきました。1637年に亀山藩士高橋小平太のむすめの久(ひさ)と結婚しましたが、1645年に久はなくなってしましました。

本多俊次(ほんだ としつぐ)

1636年に三河西尾(みかわにしお)(愛知県西尾市)から第六代め亀山城主となりました。亀山城主になって三重櫓(さんじゅうやぐら)を建てたり、堀をほりなおして城を広くするなどの大修理を3年かけておこなっています。このとき、桑名城主の松平定綱が工事のようすを見にきてくれたのに朝ねぼうをしてあうことができなかったという失敗をしています。1651年に近江膳所(おうみぜぜ)(滋賀県大津市)に移されました。

石川家成(いしかわ いえなり)

亀山城主となった石川家の初代(しょだい)で、徳川家康(とくがわ いえやす)のいとこにあたります。徳川家の家老として家康に重くもちいられ、石川家が大名となるもとをきずきました。なくなったあと家成をとむらうために建てられたのが梅巌寺(ばいがんじ)(市ヶ坂町)で、寺の名は家成の戒名(かいみょう)である梅巌常寿院(ばいがんじょうじゅいん)によるものです。

石川康通(いしかわ やすみち)

石川家成の子で、石川家の二代めにあたります。徳川家康に重くもちいられ、1600年に美濃大垣(みのおおがき)(岐阜県大垣市)城主となりました。なくなったあと康通をとむらうために建てられたのが宗英寺(そうえいじ:南野町)で、寺の名は康通の戒名(かいみょう)である華岳宗英(かがくそうえい)によるものです。

石川忠総(いしかわ ただふさ)

元は大久保氏(おおくぼし)でしたが石川家成(いしかわ いえなり)の養子となりました。1614年の大坂冬の陣でてがらをたて、近江膳所(おうみぜぜ)(滋賀県大津市)城主となりました。大坂冬の陣のとき、真冬に川の中で戦う家来たちにもちを配ったことが「川浸り餅」(かわひたろもち)のはじまりとされています。

石川昌勝(いしかわ まさかつ)

石川忠総(いしかわ ただふさ)の孫で、1651年に近江膳所(おうみぜぜ)(滋賀県大津市)から第七代目亀山城主となりました。1669年に山城淀(京都市)にうつされました。

板倉重常(いたくら しげつね)

1669年に下総関宿(千葉県野田市)から第八代めの亀山城主となりました。1688年に子の板倉重冬(いたくら しげふゆ)に城主をゆずりましたが間もなく亡くなりました。

板倉重冬(いたくら しげふゆ)

1688年に父である板倉重常(いたくら しげつね)のあとをついで第九代目亀山城主となりました。1708年になくなりました。亀山城主の時に石井兄弟が亀山城内で敵討ち(かたきうち)をおこなっています。

板倉重治(いたくら しげはる)

1709年に父である板倉重冬(いたくら しげふゆ)のあとをついで第十代めの亀山城主となりました。1710年に志摩鳥羽(しまとば)(鳥羽市)にうつされました。1717年にふたたび亀山にもどされ第十二代めの亀山城主になりました。1724年になくなりました。

板倉勝澄(いたくら かつずみ)

1724年に父である板倉重治(いたくら しげはる)のあとをついで第十三代目亀山城主となりました。1744年に備中松山(びっちゅうまつやま)(岡山県高梁市)にうつされました。亀山城主の時に円福寺(えんぷくじ)(住山町)経堂(きょうどう)を建てています。

橋爪休意(はしづめ きゅうい)

300年ほどの大商人で、本当の名は市郎兵衛(いちろべえ)といいます。関を中心として江戸・大坂で大成功しました。そのお金で地蔵院(じぞういん)(関町新所)の本堂(ほんどう)たてなおしや新田開発に力をつくしましたした。亀山城主の板倉家には4万8千両もお金をかしていました。

了翁道覚(りょうおう どうがく)

300年ほど前の出羽八幡村(でわやはたむら)(秋田県湯沢市)の生まれの僧で、夢のおつげで作り方を教えられた「錦袋円」(きんたいえん)という薬を売ったところだ大きなひょうばんとなり、その利益で社会のために力をつくしました。福神漬(ふくじんづけ)をつくったともいわれます。1694年ごろに円福寺(えんぷくじ)(住山町)など全国の20ヶ寺に「鉄眼版一切経(てつげんばんいっさいきょう)」というお経をきふしています。

谷口法悦(たにぐち ほうえつ)

300年ほど前の京都三条(きょうとさんじょう)(京都市)の人で、一族ともに仏教を深く信仰していました。東海道ぞいの各地に石塔などをたくさんきふしました。市内にも川合町・天神1丁目・関町新所に石塔や道標(みちしるべ)がのこされています。

石井兄弟(いしいきょうだい)(石井源蔵・半蔵(いしい げんぞう・いしい はんぞう)

石井正春の子の源蔵・半蔵の兄弟で、赤堀水之助に父を殺されたため、かたきうちのため赤堀水之助をさがして各地をめぐりました。28年目の1701年に亀山城の石坂門(いしざかもん)外でついに赤堀水之助をたおしました。

赤堀水之助(あかほり みずのすけ)

若いときに石井正春(いしい まさはる)を殺してしまいますが、その後は板倉家につかえました。1701年に亀山城の石坂門(いしざかもん)外でついに石井兄弟にたおされました。お墓が照光寺(しょうこうじ)(野村1丁目)にあります。

国友貞栄・国友正栄(くにとも じょうえい・くにとも しょうえい)

300年ほど前の刀のつばをつくる職人で、貞栄と正栄がどのような関係なのかはよくわかりません。ふたりが亀山で作ったつばは、てつの板にほりこみを入れて別の金属をとかしてながしこんでもようをつけていましたので亀山つばとよばれました。松平乗邑(まつだいら のりさと)にめしかかえられ、乗邑がほかの領地へうつされるといっしょについて亀山をはなれました。

松平乗邑(まつだいら のりさと)

1710年に志摩鳥羽(しまとば)(鳥羽市)より第十一代目の亀山城主となりました。家来にあてて、松平家がまもるべききまりである「亀山訓(きざんくん)」をかきしるしました。1717年山城淀(やましろよど)(京都市)へうつされました。その後、徳川吉宗のもとで老中をつとめ、め享保の改革をおしすすめました。

英一蝶(はなぶさ いっちょう)

300年ほど前の画家で本名を多賀治右衛門(たが じえもん)といいます。父が石川家につかえたといわれます。そのころのようすをえがいた絵をはじめたくさんの作品をのこしました。本久寺(ほんきゅうじ)(南崎町)にある半鐘(はんしょう)にある絵は一蝶がかいたものとされています。

前田時棟(まえだ ときむね)

300年ほど前の医師・儒学者(じゅがくしゃ)で菊叢(きくそう)ともいいます。もとは京都の人で、石川昌勝(いしかわ まさかつ)にまねかれ石川家につかえました。たくさんの本をかきのこしています。。

石川総慶(いしかわ ふさよし)

1744年に備中松山(びっちゅうまつやま)(岡山県高梁市)から第十四代目の亀山城主となりました。この後は石川家が亀山城主をつとめることにまります。1764年になくなりました。

石川総堯(いしかわ ふさたか)

1764年に第十五代目の亀山城主となりますが、わずか3ヶ月でなくなったため、一度も亀山城には入りませんでした。

石川総純(いしかわ ふさずみ)

1764年に第十六代目の亀山城主となりました。1771年に亀山の領地で大きな一揆(いっき)がおこりました(明和一揆(めいわいっき))。1773年に城主を石川総博(いしかわ ふさひろ)にゆずりました。

石川総博(いしかわ ふさひろ)

1773年に第十七代目の亀山城主となりました。1785年に武士のための学校である「明倫舎」(めいりんしゃ)をつくったとされます。1796年に城主をを石川総師(いしかわ ふさのり)にゆずりました。

石川総師(いしかわ ふさのり)

1796年に第十八代目の亀山城主となりました。1803年に亡くなっています。

石川総佐(いしかわ ふさすけ)

1803年に第十九代目の亀山城主となりました。武士のための学校である明倫舎(めいりんしゃ)を西之丸(にしのまる)(現亀山中学校校地)にうつしています。1820年に亡くなりました。

石川総安(いしかわ ふさやす)

1820年に第二十代目の亀山城主となりました。1833年に亡くなりました。

石川総和(いしかわ ふさかつ)

1833年に第二十一代目の亀山城主となりました。1848年に戦いの訓練をかねて鹿狩り(しかがり)をおこないました。1853年に城主を石川総禄(いしかわ ふさよし)にゆずりました。

石川総禄(いしかわ ふさよし)

1853年に第二十二代目の亀山城主となりました。同じ年とその次の年にアメリカ人のペリーが軍艦(ぐんかん)にのってやってきましたので、アメリカの軍艦(黒船)(くろふね)やペリーなどのようすを絵にかかせています。1862年に亡くなりました。

石川保之助(いしかわ やすのすけ)

1862年にわずか10さいで第二十三代目の亀山城主となりました。総脩(ふさなが)という名まえがありますが、まだ子どもでしたので保之助とよばれました。1865年になくなりました。

石川成之(いしかわ なりゆき)

石川保之助の弟で、1865年に第二十四代目の亀山城主となりました。1868年に幕府がたおれ藩知事(はんちじ)となりますが、1870年に藩知事をしりぞき、大名が領地を支配する時代が終わりました。

喜八(きはち)

辺法寺村(へんぼうじむら)(辺法寺町)の農民で、1771年に大きな一揆(いっき:明和一揆)をおこしたとして死刑(しけい)となりました。辺法寺町営農組合集会場(へんぼうじちょうえいのうくみあいしゅうかいじょう)には喜八の記念碑(きねんひ)がたてられています。

大井太郎右衛門(おおい たろうえもん)

1784年、太田村(太森町)と辺法寺村(辺法寺村)との間で、水争いがおこりました。このとき、太田村の人たちが辺法寺村の人を殺してしまいました。このため太田村では、村人の大井太郎右衛門を殺して、辺法寺村の人たちの怒りをおさめました。1925年に太郎右衛門の石碑が建てられています。

小万(こまん)

久留米(くるめ)(福岡県久留米市)の武士のむすめで、母とともにかたきうちの旅のとちゅう関宿山田屋でうまれたとされます。うまれてすぐ母がなくなったので、山田屋にひきとられました。大きくなると亀山の道場にかよい、剣術(けんじゅつ)を身につけました。1781年についに父のかたきをとったといいます。その後は育ててもらったお礼に山田屋ではたらき、1803年になくなりました。お墓は福蔵寺(ふくぞうじ)(関町新所)にありますが、本当にいた人かはよくわかっていません。

シーボルト

ドイツ生まれの医者・科学者で、長崎出島(ながさきでじま)(長崎県長崎市)のオランダ商館(しょうかん)の医者となり、1826年に商館長とともに江戸をおとずれています。このとちゅうで、鈴鹿峠でみつかったというオオサンショウウオを坂下(関町坂下)で手に入れ、オランダに持ち帰っています。また、亀山のまちや城のようすを日記にかきのこしています。

生田理左衛門(いくた りざえもん)

250年ほど前の亀山藩の武士で、備前岡山(びぜんおかやま)(岡山県岡山市)で土木工事を学びました。椋川や鈴鹿川をまっすぐにしてこう水をへらし、川のあとに新田開発をしました。

佐藤源蔵(さとう げんぞう)

250年ほど前の辺法寺村(へんぼうじむら)(辺法寺町)の人で、安楽川をまっすぐにする工事をおこない、「前田十三割」(まえだじゅうさんわり)とよばれる新田開発をおこないました。また、1744年には、太岡寺村に龍光院という寺を建てました。1818年に102さいで亡くなったとされます。

打田権四郎(うちだ ごんしろう)

300年ほど前の大庄屋。新田開発など地域のために力をつくしたほか、亀山の領地をようすをくわしく記した「九々五集」(くくごしゅう)をまとめました。

大田南畝(おおた なんぽ)

幕府の役人であるとともに、蜀山人(しょくさんじん)などの名まえでさまざまな種類の文学作品をつくりました。1801年に大坂に向かうとちゅう、亀山から坂下をとおり、そのようすをくわしく書きのこしています。

歌川広重(うたがわ ひろしげ)

170年ほど前の画家で、けしきをえがいた絵をとくいとしました。1830年に幕府の役人としてとおった、坂下・関・亀山などの東海道のようすを絵にまとめて、1834年に版画としてうりだしました。

粟田吉正吉(あわたぐち まさよし)

200年ほど前の石川家につかえた刀かじで、1792年に長さが96.9cmもある刀を作っています。

万吉(まんきち)

200年ほど前の坂下の人で、小さいときに父をなくし、母が病気がちだったので鈴鹿峠でにもつ運びをしてお金をかせいで、母をやしなっていました。1778年に幕府からほうびをもらいました。1821年には役人にとりたてられました。片山神社(かたやまじんじゃ)(関町坂下)の前に石碑(せきひ)がたてられています。

孫助(まごすけ)

200年ほど前の加太板屋の人で、おけ屋をいとなみ、病気の父母をやしなったため、津藩主よりほうびをあたえられました。

大月関平(おおつき せきへい)

200年ほどの亀山藩の武士で、武芸(ぶげい)の鹿島新蔭流(かしましんかげりゅう)を学び、のちに鹿島新陰流第十代が急になくなったため、第十一代目の師範(しはん)となりました。その後、亀山に道場を開き、亀山藩の武士たちに武芸をおしえました。お墓は遍照寺(へんじょうじ)(西町)にあります。

泉沢履斎(いずみさわ りさい)

中国の古い教えについての学者で、もとは今の秋田県の生まれです。1816年に石川総佐(いしかわ ふさすけ)にまねかれて石川家につかえました。1854年の大地震で大けがをおって次の年になくなりました。

山木善太(やまき ぜんた)

中国の古い教えについての学者で、阿波国(あわのくに)(徳島県)の生まれです。1831年から石川家につかえました。照光寺(しょうこうじ)(野村1丁目)にお墓があります。あとをついだ退蔵(たいぞう)は、武士のための学校である明倫舎(めいりんしゃ)(現亀山中学校の場所)の一番えらい先生となりました。

柴田右仲(しばた うちゅう)

中国の古い教えについての学者で、石川家につかえ、武士のための学校である明倫舎(めいりんしゃ)(現亀山中学校の場所)の先生となりました。

堀池衡山(ほりいけ こうざん)

180年ほど前の数学者で、武士のための学校である明倫舎(めいりんしゃ)(現亀山中学校の場所)の先生です。たくさんの数学の本をかいたとされますがのこっていません。子どもの久道(ひさみち)がかいた数学の本にまちがいなどがないか確認をしており、これらの本は今も残っています。

由良時ェ(ゆら ときざね)

1801ほど前の天文学者で、武士のための学校である明倫舎(めいりんしゃ)(現亀山中学校の場所)の先生です。代々石川家につかええ、京都でヨーロッパから伝えられた学問(蘭学(らんがく))の勉強をしました。天文学についての本をかきのこしています。

田中亀甫(たなか きほ)

新所(関町新所)の商人で、庄左衛門(しょうざえもん)が本当の名まえです。京都で絵を学び、たくさんの画家や作家などとの交流もありました。関町新所にある「田中家住宅」は亀甫が住んでいた家です。

真乗(しんじょう)

250年ほど前の僧で、あれはてていた西念寺(さいねんじ)(木下町)を復興したとされます。寺の中にある地蔵堂をたてたり、たくさんの人でお経をとなえる行事をしたりしました。近くの山の上に石に書いたお経をうめ、なくなったとはそこをお墓としました。

千丈実巌(せんじょう じつがん)

250年ほど前の僧で、近江国(おうみのくに)(滋賀県)の生まれです。龍光院を復興した師の拈華実参(ねんげじっさん)という僧のあとに龍光院(りゅうこういん)(朝明山町)に入り、拈華実参が行なったことを記した石塔をたてました。その後、信濃国(しなののくに)(長野県)長国寺(ちょうこくじ)(長野県長野市)にうつりました。たくさんの事をよく学んだ僧として知られ、詩集などたくさんの本をあらわしました。

大黒屋光太夫(だいこくや こうだゆう)

200年ほど前の船乗りで、そのころは亀山の領地だった南若松村(みなみわかまつむら)(鈴鹿市南若松町)の生まれです。1782年に白子(しろこ)(鈴鹿市白子町)から船で江戸(えど)(東京)にむかうとちゅう嵐にあい、アリューシャン列島のアムチカト島にながれつきました。その後ロシアの人々に助けられ10年後に日本へ帰ってきました。1802年にふるさとの南若松村に帰ったときに亀山城をおとずれています。

市川寛道(いちかわ ひろみち)

250年ほどまえの木崎村(関町木崎)の庄屋で、70さいをすぎてからお経をかきうつして、1749年にこれをおさめるために石でできた小さな蔵(くら)を瑞光寺(ずいこうじ)(関町木崎)に建てました。

正法院法瑞(しょうほういん ほうずい)

150年ほど前の僧で、1838年に誓正寺(せいしょうじ)(関町新所)の住職(じゅうしょく)なり、1866年までのあいだに寺を復興(ふっこう)するとともに、たくさんの人々に学問を教えました。誓正寺には、法瑞の教えを受けた人々によって記念の石塔が建てられました。

飯沼慾齋(いいぬま よくさい)

150年ほど前の科学者で、西町の生まれです。若いときに亀山を出て、美濃大垣(みのおおがき)(岐阜県大垣市)の飯沼家(いいぬまけ)に養子(ようし)に入りました。医学や西洋の学問をを学び、植物の研究を進め、日本で最初に植物の分類を行いました。また、開発されたばかりの写真の研究もおこないました。わが国の科学のいしづえをきずいたひとりです。

高橋道八(初代)(たかはし どうはち)

150年ほど前のの陶芸家で、亀山藩の武士の家に生まれ、本当の名まえは高橋周平(たかはし しゅうへい)といいます。京都に出て焼物の修業をして、窯を開きました。このころに京都で活躍した陶芸家のひとりです。

近藤鐸山(こんどう たくざん)

150年ほど前の亀山藩家老で、1849年に家老となり、若い藩主を支えて武士の時代が終わるころの困難な時代を乗り切りました。和歌や書、絵を得意とし、たくさんの作品をのこしています。お墓は慈恩寺(じおんじ)(野村2丁目)にあります。また、記念碑が多門櫓(たもんやぐら)(本丸町)の前にあります。

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