亀山人物伝(かめやまじんぶつでん)
亀山市(かめやまし)の歴史(れきし)にかかわるさまざまな人(ひと)について調(しら)べてみましょう。
倭姫命(やまとひめのみこと)
垂仁天皇
(すいにんてんのう)の皇女
(ひめみこ)です。天皇家
(てんのうけ)の祖先
(そせん)の神
(かみ)をおまつりする場所
(ばしょ)を探
(さが)して、各地
(かくち)をめぐり、五十鈴川
(いすずがわ)(伊勢市
(いせし))の上流
(じょうりゅう)にいちばんよい場所
(ばしょ)をみつけました。この場所
(ばしょ)が伊勢神宮
(いせじんぐう)のはじまりとなりました。そのとちゅうで、6ヶ月間
(かげつかん)「鈴鹿小山宮
(すずかおやまのみや)」にとどまりました。このあとにつくられたのが忍山神社
(おしやまじんじゃ)とされます。日本武尊
(やまとたけるのみこと)のおばにあたります。
大比古(おおひこ)
この地域
(ちいき)の豪族
(ごうぞく)で、倭姫命
(やまとひめのみこと)が鈴鹿小山宮
(すずかおやまのみや)にとどまられたときにおむかえをし、そのあとに忍山神社
(おしやまじんじゃ)をたてました。忍山宿彌
(おしやまのすくね)の先祖
(せんぞ)にあたります。
日本武尊(倭健命)(やまとたけるのみこと)
景行天皇
(けいこうてんのう)の皇子
(みこ)、倭健命
(やまとたけるのみこと)とも書
(か)きます。父
(ちち)の景行天皇
(けいこうてんのう)の命
(めい)をうけて、天皇
(てんのう)にしたがわない人々
(ひとびと)と戦
(たたか)いました。その帰
(かえ)りに病気
(びょうき)になり、能褒野
(のぼの)でなくなりました。日本武尊
(やまとたけるのみこと)の魂
(たましい)は白鳥
(しらとり)にすがたをかえて、その墓
(はか)から飛
(と)び立
(た)ったといわれます。
弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)
日本武尊
(やまとたけるのみこと)のお妃
(きさき)です。日本武尊
(やまとたけるのみこと)が東日本
(ひがしにほん)に戦
(たたか)いに行
(い)くときにしたがい、何度
(なんど)もあぶないめにさらされました。走水
(はしりみず)の海
(うみ)(東京湾
(とうきょうわん))をわたるときにあらしにあい、海
(うみ)の神
(かみ)のいかりをしずめるために、みずから海
(うみ)にみをなげました。忍山宿彌
(おしやまのすくね)のむすめだとつたえられます。
大海人皇子(おおあまのおうじ)
672年
(ねん)に天皇
(てんのう)のくらいをめぐる戦
(たたか)い(壬申の乱
(じんしんのらん))がおきたときに、6月
(がつ)24日
(にち)にこの地域
(ちいき)を通
(とお)って美濃国
(みののくに)(岐阜県
(ぎふけん))で兵
(へい)を集
(あつ)めました。戦
(たたか)いに勝
(か)ったのちに天武天皇
(てんむてんのう)となり、国
(くに)のしくみをととのえました。この地域
(ちいき)を通
(とお)ったときに、「川曲
(かわわ)の坂下
(さかもと)」で家
(いえ)を燃
(も)やして体
(からだ)をあたためたとされます。川崎町堂坂
(かわさきちょうどうざか)が「川曲
(かわわ)の坂下
(さかもと)」の場所
(ばしょ)だとつたえらています。
鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)
天智天皇
(てんじてんのう)の皇女
(ひめみこ)で、大海人皇子
(おおあまのおうじ)の后
(きさき)です。672年の壬申の乱
(じんしんのらん)のときに、大海人皇子にしたがってこの地を通りました。天武天皇がなくなったあと持統天皇となり、天武天皇がすすめた国のしくみづくりをうけつぎました。
三宅連石床(みやけのむらじ いわとこ)
伊勢国司
(いせこくし)(伊勢国の長官)で、672年の壬申の乱
(じんしんのらん)のときに、「大山」
(おおやま)(加太)をこえてきた大海人皇子
(おおあまのおうじ)たちを、「鈴鹿関
(すずかのせき)」ででむかえてみかたとなりました。
三輪君子首(みわのきみ こびと)
672年の壬申の乱
(じんしんのらん)のときに、三宅連石床
(みやけのむらじいわとこ)らとともに「大山」
(おおやま)(加太)をこえてきた大海人皇子
(おおあまのおうじ)たちを、「鈴鹿関
(すずかのせき)」ででむかえてみかたとなりました。
田中臣足麻呂(たなかのおみ たりまろ)
大海人皇子の領地を管理していた役人で、672年の壬申の乱
(じんしんのらん)のときに、三宅連石床
(みやけのむらじいわとこ)らとともに「大山」
(おおやま)(加太)をこえてきた大海人皇子
(おおあまのおうじ)たちを、「鈴鹿関
(すずかのせき)」ででむかえました。
高田首新家(たかたのおびとにいのみ)
672年の壬申の乱
(じんしんのらん)のときに、三宅連石床
(みやけのむらじいわとこ)らとともに「大山」
(おおやま:加太)をこえてきた大海人皇子
(おおあまのおうじ)たちを、「鈴鹿関
(すずかのせき)」ででむかえて、美濃国(岐阜県)まで行っています。
聖武天皇(しょうむてんのう)
1250年ほど前の天皇で、740年に新しい国づくりをすすめるために、多くの役人たちをひきつれて都から東の地域をめぐっています。このとき、11月14日から23日まで赤坂頓宮
(あかさかとんぐう)にとどまりました。この旅から帰ってから、全国に寺を建てたり、東大寺大仏をつくるなど仏教を中心とした国づくりをすすめました。赤坂頓宮
(あかさかとんぐう)は関町木崎にあったとつたえられます。
吉備真備(きびのまきび)
1250年ほど前の政治家で、2度も遣唐使
(けんとうし)として中国にわたり、多くのことを学んだ学者でもありました。その知識をいかして天皇の政治をたすけました。740年に聖武天皇
(しょうむてんのう)にしたがって11月14日から22日まで赤坂頓宮
(あかさかとんぐう)にとどまりました。
大伴家持(おおとものやかもち)
1240年ほど前の歌人・政治家で、776年から780年のあいだに伊勢国司をつとめています。歌人としても知られ「万葉集」の編集をおこなったとされています。大伴家持の歌は百人一首の中にもあります。
行基(ぎょうき)
1300年ほど前の僧
(そう)。水路や道路をつくったり、橋をかけるなど社会のためにつくしたので、多くの人びとから「行基菩薩」
(ぎょうきぼさつ)とよばれ親しまれました。また、聖武天皇
(しょうむてんのう)の命をうけ東大寺大仏をたてるために力をつくしました。市内では、慈恩寺
(じおんじ)(野村3丁目)の阿弥陀如来像
(あみだにょらいぞう)をつくったり、地蔵院
(じぞういん)(関町新所)を開いたなどのいいつたえがたくさんあります。
空海(くうかい)
1200年ほど前の僧
(そう)で、弘法大師
(こうぼうだいし)ともよばれます。国分寺
(こくぶんじ)(白木町)や石上寺
(せきじょうじ)(和田町)をひらいたとつたえられます。弘法大師が山の中で修行
(しゅぎょう)しているときに空に明るい星がかがやいて柏
(かしわ)の木をてらしたことから、その山を明星ヶ岳
(みょうじょうがたけ)、その近くの村を柏の字を分解して白木とよぶようになったとされます。
仙朝(せんちょう)
1100年ほど前にいたとされる僧
(そう)で、醍醐天皇
(だいごてんのう)が見た夢の中でのおつげにより、天皇の命をうけて910年に野登寺
(やとうじ)(安坂山町)を開きました。仏となって人びとをすくうため、みずからねがって生きたまま山の上にうめられたとされます。このため仙朝がうめられた山は仙ヶ岳とよばれるようになりました。
立烏帽子(たてえぼし)
むかし鈴鹿峠(関町坂下)にいたという女の山賊
(さんぞく)です。また、そのころいちばんの美人であったともいわれます。天皇の命をうけた坂上田村麻呂
(さかのうえのたむらまろ)によってとらえられ、その後は坂上田村麻呂にしたがって山賊たいじに協力しました。
鬼丸(おにまる)
むかし鈴鹿峠(関町坂下)にいたという山賊
(さんぞく)で、鬼丸と名のって旅人を苦しめました。旅の僧が鬼丸にころされるまえに残したじゅ文により、長野(津市美里)のとのさまのけらいであった孫六
(まごろく)であることがばれて、長野のとのさまによってとらえられたといいいます。
石寸部豊足(いしきべの とよたり)
736年ごろに、鈴鹿郡
(すずかぐん:亀山市・鈴鹿市の一部)の役人として尾張国
(おわりのくに)(愛知県西部)につかわされたという記録があります。この地域にじっさいに住んでいた人で名まえがわかるいちばん古い人です。
厳秀(げんしゅう)
1000年ほど前の僧
(そう)。永保3年(1083)11月〜11月に度会郡二見
(わたらいぐんふたみ:伊勢市二見町)お経を書きうつし、鈴鹿郡大田荘
(すずかぐんおおたのしょう)(太森町ふきん?)でお経を読むときの記号を書きしるしました。
和泉式部(いずみしきぶ)
1000年ほど前の女性の歌人で、大江雅致
(おおえのまさむね)のむすめです。橘道貞
(たちばなのみちさだ)と結婚
(けっこん)し、道貞が和泉国
(いずみのくに)(大阪府西部)の長官となったことから和泉式部とよばれます。石上寺
(せきじょうじ)(和田町)にこもっておまいりしたときに水をくんだと伝えられる井戸が栄町にあります。
佐藤嗣信(さとう つぐのぶ)
源義経
(みなもとのよしつね)のけらいです。源義経にしたがって関まできた時に病気になったので、出羽国羽黒
(でわのくにはぐろ:山形県鶴岡市)にまつられていた羽黒権現
(はぐろごんげん)を鷲山
(わしやま)でもまつったところ病気がなおったとされます。羽黒山の名前は羽黒権現がまつられていることによるものです。
渋谷金王丸(しぶや こんのうまる)
源義朝
(みなもとのよしとも)のけらいで、武蔵国
(むさしのくに:東京都と埼玉県ふきん)の武士です。源氏
(げんじ)と平氏
(へいし)が戦った平治の乱
(へいじのらん:1159)に負けた源義朝が尾張国
(おわりのくに)(愛知県西部)で、けらいのうらぎりにあってころされたときに、そのしらせを都につたえるために通った道を金王道
(こんのうみち)とよぶようになりました。東京都渋谷区
(とうきょうとしぶやく)の地名は渋谷金王丸の領地
(りょうち)や城があったことによるものとされています。
平忠盛(たいらの ただもり)
平清盛
(たいらのきよもり)の父で、伊勢地方
(いせちほう)(三重県東部)の大きな力を持っていた武士です。1153年より前に、鈴鹿山の猟師が山の中で手に入れた名刀抜丸を、たくさんの領地
(りょうち)とひきかえに手に入れたと伝えられます。
平資盛(たいらの すけもり)
平清盛の孫で、1170年ごろに藤原基房
(ふじわらのもとふさ)と争いをおこし、罰として久我(関町久我)で謹慎
(きんしん)させられたとの言い伝えがあります。このとき、久我でもうけた子が平盛国
(たいらのもりくに)で、関氏の先祖とされます。1185年に壇ノ浦の戦い
(だんのうらのたたかい)で敗れて亡くなりました。
紀盛親・藤原愛子(きの もりちか・ふじわらの あいこ)
840年ほど前に和田荘
(わだのしょう)(和田町ふきん?)に住んでいた人。1175年7月に稲生神社
(いのうじんじゃ:鈴鹿市)にお経をおさめています。
源義経(みなもとの よしつね)
源頼朝
(みなもとのよりとも)の弟。1183年ごろに鈴鹿関をこえて宇治(京都府)へ兵をすすめ、木曽義仲
(きそよしなか)と戦っています。1185年に壇ノ浦の戦い
(だんのうらのたたかい)で平資盛
(たいらのすけもり)らに勝って、平氏をほろぼしています。
伊勢義盛(いとう よしもり)
源義経
(みなもとのよしつね)のけらいで、もとは鈴鹿山の盗賊
(とうぞく)といわれます。1185年に鈴鹿山にたてこもり、伊勢国守護
(いせのくにしゅご)の山内首藤経俊
(やまうちすどう つねとし)と戦い敗れています。