亀山こども歴史館トップページ 古典(こてん)に出(で)てくる亀山(たたか)いの話(はなし)

[古典(こてん)に出(で)てくる亀山(かめやま)]むかしから、たくさんの人々(ひとびと)が行(ゆ)き来(き)する亀山(かめやま)には、旅人(たびびと)が見(み)たり、聞(き)いたりしたことが歌(うた)や日記(にっき)などさまざまな文学作品(ぶんがくさくひん)の中(なか)にとりあげられてきました。

(たたか)いの話(はなし)

交通(こうつう)の重要(じゅうよう)な場所(ばしょ)である亀山(かめやま)は、世(よ)の中(なか)がみだれると戦(たたか)いの舞台(ぶたい)ともなりました。亀山(かめやま)でくりひろげられた戦(たたか)いの物語(ものがたり)を調(しら)べてみましょう。

 

峯城(みねじょう)の戦(たたか)

1583年(ねん)(天正(てんしょう)11年(ねん))と、その翌年(よくねん)に羽柴秀吉(はしばひでよし)(後(のち)の豊臣秀吉(とよとみひでよし))によって攻(せ)められています。このときの物語(ものがたり)は、「秀吉(ひでよし)が来(き)た(その壱(いち))」というパンフレットにまとめてあります。このパンフレットは歴史博物館(れきしはくぶつかん)や市役所(しやくしょ)においてあります。


 峯城跡(みねじょうあと)空中写真(くうちゅうしゃしん)

 

亀山城(かめやまじょう)の戦(たたか)

1583年(ねん)(天正(てんしょう)11年(ねん))に羽柴秀吉(はしばひでよし)(後(のち)の豊臣秀吉(とよとみひでよし))によって攻(せ)められています。このときの物語(ものがたり)は、「秀吉(ひでよし)が来(き)た(その2)」というパンフレットにまとめてあります。このパンフレットは歴史博物館(れきしはくぶつかん)や市役所(しやくしょ)においてあります。

 

正長(しょうちょう)の乱(らん)

1429年(ねん)(正長(しょうちょう)2年(ねん))、北畠満雅(きたばたけみつまさ)がかつて南朝方(なんちょうがた)の皇子(おうじ)であった小倉宮(おぐらのみや)と幕府(ばくふ)に反乱(はんらん)を起(お)こしました。関盛雅(せきもりまさ)は1429年(ねん)(正長(しょうちょう)2年(ねん))に北畠氏(きたばたけし)とともに幕府方(ばくふがた)と戦(たたか)い、最後(さいご)は「山下(やました)」から姿(すがた)をくらまし、「羽黒(はぐろ)・白木(しらき)・いしか峯(みね)」の3つの城(しろ)は降伏(こうふく)しています。この戦(たたか)いの後(のち)、いったん関氏(せきし)の領地(りょうち)は取(と)り上(あ)げられますが、幕府(ばくふ)は関氏(せきし)を許(ゆる)して関氏(せきし)の領地(りょうち)を返(かえ)しています。

 

三日平氏(みっかへいし)の乱(らん)

1204年(ねん)(元久(げんきゅう)元年(がんねん))、平氏(へいじ)の残党(ざんとう)が伊勢(いせ)と伊賀国(いがのくに)で反乱(はんらん)を起(お)こします。その首謀者(しゅぼうしゃ)である若菜五郎(わかなごろう)は、関(せき)や小野(おの)などに城(しろ)を構(かま)えて幕府軍(ばくふぐん)と戦(たたか)い小野城(おのじょう)で最期(さいご)をとげています。この反乱(はんらん)は短期間(たんきかん)で終(お)わったため「三日平氏(みっかへいし)の乱(らん)」とよばれます。小野町(おのちょう)にある小野城跡(おのじょうあと)は、この時(とき)の城跡(しろあと)とされ現在(げんざい)、土塁(どるい)や堀(ほり)の跡(あと)が残(のこ)っていますが、これらは三日平氏(みっかへいし)の乱(らん)よりも300年(ねん)ほど後(あと)に造(つく)られたものと見(み)られます。


 小野城跡(おのじょうあと)

 

関ヶ原(せきがはら)の戦(たたか)

豊臣秀吉(とよとみひでよし)がなくなったあとの1600年(ねん)(慶長(けいちょう)5年(ねん))に天下(てんか)(わ)け目(め)の戦(たたか)いが起(お)こります。実際(じっさい)の戦(たたか)いは関ヶ原(せきがはら)(岐阜県(ぎふけん)関ヶ原町(せきがはらちょう))でしたが、西軍(せいぐん)が安濃津城(あのつじょう)(津市(つし))を攻(せ)めるために関(せき)に陣地(じんち)をかまえています。また、戦(たたか)いがおわって敗(やぶ)れた、島津軍(しまづぐん)が関(せき)を通(とお)って逃(に)げてゆきました。

 

壬申(じんしん)の乱(らん)

672年(ねん)、天皇(てんのう)のあとつぎをめぐる戦(たたか)い(壬申(じんしん)の乱(らん))の時(とき)、美濃国(みののくに)(岐阜県(ぎふけん))で兵(へい)を集(あつ)めるために、大海人皇子(おおあまのおうじ)とそのきさきであるウノノササラヒメが加太(かぶと)から関(せき)をとおってゆきました。戦(たたか)いに勝(か)った大海人皇子(おおあまのおうじ)とウノノササラヒメは天武天皇(てんむてんのう)。持統天皇(じとうてんのう)となり、律令(りつりょう)を中心(ちゅうしん)とした国(くに)づくりを進(すす)めました。

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