峯城歌合戦(みねじょううたがっせん)
1583年(ねん)(天正(てんしょう)11年(ねん))、羽柴秀吉(はしばひでよし)が滝川儀太夫(たきがわぎだゆう)が守(まも)る峯城(みねじょう)を攻(せ)めました。羽柴軍(はしばぐん)の中(なか)には織田信長(おだのぶなが)の弟(おとうと)である織田信包(おだのぶかね)(上野介(こうずけのすけ))も加(くわ)わっていました。ある日(ひ)のこと峯城内(みねじょうない)から「上野(こうずけ)の 抜(ぬ)け砥(と)はやりに 合(あ)いもせず 醍醐(だいご)の寺(てら)の 剃刀(かみそり)をとげ」と歌(うた)がよまれました。信包(のぶかね)が京都(きょうと)の醍醐寺(だいごじ)近(ちか)くに屋敷(やしき)を構(かま)え、これまで戦(たたか)いで手(て)がらを立(た)てていないことから、やりではなく出家(しゅっけ)するための剃刀(かみそり)でもといだらどうだとからかわれたのでした。これに対(たい)して、羽柴軍(はしばぐん)の中尾新太夫(なかおしんだゆう)が、「春雨(はるさめ)に 岸峯(きしみね)までも くずれ落(お)ち つれて流(なが)るる 滝川(たきがわ)の水(みず)」と峯城(みねじょう)落城(らくじょう)と城(しろ)を守(まも)る瀧川儀太夫(たきがわぎだゆう)が負(ま)けてしまう意味(いみ)の歌(うた)を返(かえ)したのでした。