亀山こども歴史館トップページ 亀山のむかしばなしどうして亀山(かめやま)っていうの?

[亀山のむかしばなし]亀山(かめやま)で言(い)い伝(つた)えられてきた話(はなし)を集(あつ)めてみました。むかしの人々(ひとびと)はどんな話(はなし)をわたしたちにのこしてくれたのでしょうか。

どうして亀山(かめやま)っていうの?

「亀山市(かめやまし)」の亀山(かめやま)という地名(ちめい)はどうしてつけられたのでしょうか?そのこたえはわからないのですが、「亀山地方郷土史(かめやまちほうきょうどし)」には4つの説(せつ)が記(しる)されています。



さまざまな言(い)い伝(つた)

三匹(さんびき)の亀(かめ)

敏達天皇(びだつてんのう)の時代(じだい)(572〜585)、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)の百済(くだら)という国(くに)から来(き)た日羅(にちら)という僧(そう)が、三匹(さんびき)の亀(かめ)を献上(けんじょう)しました。この亀(かめ)を、山城(やましろ)(京都市右京区(きょうとしうきょうく))・丹波(たんば)(京都府亀岡市(きょうとふかめおかし))・伊勢(いせ)(亀山市(かめやまし))で逃(に)がしてあげることにしました。その後(ご)、亀(かめ)を逃(に)がした場所(ばしょ)をそれぞれ「亀山(かめやま)」とよぶようになりました。

 

(かめ)の甲(こう)

亀山(かめやま)の町(まち)は、全体(ぜんたい)が小高(こだか)い丘(おか)の上(うえ)にあり、その形(かたち)が亀(かめ)の甲(こう)らに似(に)ていることから亀山(かめやま)というようになりました。

 

メドハギ占(うらな)

むかし、阿野田町(あのだちょう)にメドハギという草(くさ)がたくさん生(は)えていました。このメドハギは占(うらな)いにつかうために朝廷(ちょうてい)に献上(けんじょう)されていました。ふしぎなことにメドハギの中(なか)にはいつも亀(かめ)がすみついていたので、朝廷(ちょうてい)ではこの亀(かめ)の甲(こう)らも占(うらな)いに使(つか)いましたので、亀(かめ)の産地(さんち)として亀山(かめやま)というようになりました。

 

(かみ)の山(やま)

ヤマトヒメがしばらく滞在(たいざい)した「鈴鹿小山宮(すずかのおやまのみや)」の跡(あと)に忍山神宮(おしやまじんぐう)がまつられることになりました。忍山神社(おしやまじんじゃ)のある場所(ばしょ)を「神(かみ)の山(やま)」といい、これが後(のち)になまって「亀山(かめやま)」というようになりました。

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