むかしのくらし 〜食〜
昔のくらしは、今とどのように違うのでしょうか。“食”の場面で使われた道具を見てみましょう。電化製品が使われていないことが、大きな特徴です。道具の材料も木や竹が中心になっていて、今とは違います。だんだんと便利になっていく様子がわかります。 |
食事の呼称と時間帯
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朝食 |
昼食 |
小昼 |
夕食 |
呼称 |
あさめし |
ひるめし |
こびる |
ゆうめし |
食事 時間 |
夏 |
5時〜6時頃 |
11時〜11時30分 |
3時〜4時 |
6時〜7時頃 |
冬 |
6時〜7時頃 |
6時〜7時頃 |
氷冷蔵庫
(亀山市歴史博物館所蔵豊田家寄贈資料)
氷で冷やす冷蔵庫です。氷は、氷屋さんから購入しました。このような氷冷蔵庫が普及するまでは、夏期は食べ物が痛みやすいため、温度が比較的低い井戸の中へつるして一時的に保管しました。
氷冷蔵庫内部は、2段になっており、氷の塊を上段に入れ、冷やしたいものを下段に入れます。中には、氷が溶けてできた水を流すパイプが通っています。パイプは、冷蔵庫の下まで通り抜けており、水はそのまま外へ排出されます。 |
米櫃
(亀山市歴史博物館所蔵北村家寄贈資料) |
容器は陶製、蓋は木製となっています。蓋は密閉性が保たれるよう、ぴったりと閉まります。 |
枡
(亀山市歴史博物館所蔵川戸家・小坂家寄贈資料)
様々な容積をはかることができます。今の計量カップのことです。1合(約180mL)・5合(約900mL)・1升(約1.8L=10合)・1斗(約18L=10升)があります。 |
かまど
煙突がついたタイル張りのかまど(山下町) |
「おくどさん」で煮炊きする様子(布家町) |
かまどは煮炊きをするためのもので、「おくどさん」や「くど」と呼ばれていました。土で作られたかまどである「つちくど」は、煙突がないため、煙は屋根裏から直接外へ抜け出ていました。戦後になると、煙突がついたかまど(レンガ積みのものなど)が普及し始め、その後、セメントで表面にタイルを貼ったものが使われるようになりました。 |
羽釜
(亀山市歴史博物館所蔵石見家寄贈資料) |
炊飯や湯沸しなどに使います。おくどさん(かまど)で、火にかけます。炊いたご飯は飯櫃に移し、食事の場へ運びます。 |
電気炊飯器(ナショナル製/昭和30年代)
(亀山市歴史博物館所蔵倉田家寄贈資料) |
電気式の炊飯器は、1921年(大正10年)にかまどの中に電熱線を組み込んだ炊飯電熱器が発売されたことに始まります。この時の炊飯器は、火加減を手動で行う必要がありました。
昭和30年代になって、現在の炊飯器と同じように、自動で炊飯と保温もできる製品が発売されました。 |
飯櫃・よさ
飯櫃 |
よさ |
(亀山市歴史博物館所蔵大川家寄贈資料) 釜で炊飯した後、炊きあがったご飯を飯櫃に移しました。飯櫃は、木でできていたため、吸水性・保温性に優れており、ご飯を美味しく保つことができました。
冬はすぐに冷えてしまうので、さらに、藁でできた「よさ」(飯ふご)に入れて保温していました。保温性に優れているという藁の特性を生かした製品で、昔の人の工夫がうかがえます。 |
飯籠
(亀山市歴史博物館所蔵原家寄贈資料) |
ご飯を毎食炊くのは大変だったので、朝に昼食の分も一緒に炊いたり、時には3食分を1度に炊いたりすることもありました。しかし、今のような長時間保温ができる炊飯器がなかった時代は、夏に炊いたご飯を釜に入れっぱなしにしておくと、ご飯が傷むため、通気性のよい飯籠に入れ、風の通りがよい軒下などにつるしていました。 |
箱膳
(亀山市歴史博物館所蔵今井家寄贈資料) |
家族の一人一人が、それぞれ自分の飯椀・汁椀・小皿・箸を持っていました。それらを入れておく箱です。食事の時には、自分の箱膳を使い、蓋を裏がえして箱の上に置き、それを机がわりとしました。食事の後は、お茶でそれぞれの椀を軽くゆすぎ、それを飲み干してそのまま箱膳にしまっていました。水で食器を洗うのは3、4日に1度か1週間に1度くらいでした。市内では昭和30年頃まで使われていたことがわかっています。 |
卓袱台
(亀山市歴史博物館所蔵渡辺家寄贈資料) |
折り畳み式の食卓です。一人一人がお膳や箱膳で食事をする形から、家族で集まり、食卓を囲んで食事をする形へと変わりました。
市内の加太地区では、1941年(昭和16年)頃から卓袱台を使用した家もありました。卓袱台を使うようになると、食器はそのつど洗うようになりました。 |
わっぱ(曲げわっぱ)
(亀山市歴史博物館所蔵近澤家寄贈資料) わっぱはスギやヒノキなどを薄くした板を曲げて作られ、県内では、尾鷲地域がわっぱの産地として有名です。わっぱの利点は、木が適度に湿気を吸うので、現在のようなプラスチックや金属製の弁当箱と違って、ご飯が水っぽくならず冷えても美味しく保てます。
わっぱは、市内では「おかわ弁当」や「はんご」とも呼ばれました。蓋が深く作られていますので、身と蓋の両方にご飯を詰め、2食分を入れることができました。山仕事(林業)や野良仕事(農業)でも持参していました。おかずは主に、梅干しや漬け物でした。 |
弁当箱
(亀山市歴史博物館所蔵井野家寄贈資料) 男の子用の青い弁当箱には飛行艇と乗客船の絵が描かれています。女の子用の赤い弁当箱には、木蓮の絵が描かれています。日興工業製のアルマイトの弁当箱です。中には、おかずを別に分けられる入れ物がついています。 |
弁当箱(組立式)
(亀山市歴史博物館所蔵井野家寄贈資料) アルマイトの組立式の弁当箱です。食べた後、分解して小さく収納できる画期的なものでした。 |
提重(提重箱)
(亀山市歴史博物館所蔵西谷家寄贈資料) 主に、花見などの行楽用に使われた手提げ式の弁当箱です。これは、漆塗りの木製の弁当箱です。箱の中は、下段にご飯を入れる箱、上段にはおかずを入れる小さな重箱やお酒を入れる水筒、椀などを収納し、外箱の蓋はおぼんとしても使えるように工夫されています。 |
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