2.書かれたものにみる季節
 収蔵品の中には、古文書など文字で書かれたさまざまなものも集められている。文字は、絵と違って見た目では四季を感じづらいが、書かれた内容をみていくと、季節感あふれる内容のものも多く存在している。
 そこで、このコーナーでは、文字で書かれたものに着目し、そこに書かれた内容から季節が感じられる収蔵品を紹介する。
(1)季節を詠む

 日本固有の歌や詩に和歌や連歌、俳句などがある。和歌は、5・7・5・7・7の31文字で表現した歌である。そして、梅や桜など季節を表す語である「季語」を入れ、和歌よりも少ない5・7・5のわずか17文字で表現した詩が俳句である。和歌は、俳句と違い季語は必要としないが、なかには、俳句で季語にあたる語を用いることで、季節感を出している歌もある。
 ここでは、このような和歌や俳句を中心に、収蔵品から季節を詠んだ歌や詩を紹介する。
ちしき①
  旧暦の季節と現在(新暦)の季節










10
11
12

[2-1]
2-1:
和歌「梅か枝に椿の花を打添て贈給ひけれハうめつはきといふ五文字を句の上にならへて其使に申奉けるうた」
年代:江戸時代後期
館蔵天野家文書
[2-1]
うくひすも 愛筒めでつつ枝に 集ふらん
花おほかりし 君の高殿     

 この歌の作者は「保行」とある。保行は江戸時代から続く関町中町の商家、深川屋ふかわやの主人だった人物である。鴬は、俳句でいえば春の季語でもあり、この和歌は初春の季節を詠んだ歌である。
ちしき⑤
俳句に使われる季語
(代表的なもののみ掲載)
梅・桜・蒲公英たんぽぽ土筆つくし・椿・菜の花・藤・糸瓜へちま・鴬・かえる・雀の子・蝶・雲雀ひばり・若鮎・朧月おぼろづき陽炎かげろう・霞・春雨・雛
紫陽花・あやめ・卯の花・菖蒲・新緑・たけのこ・葉桜・向日葵ひまわり牡丹ぼたん・百合・若葉・鮎・せみ・蛍・不如帰ほととぎす・雷・薫風・五月雨さみだれ涼風すずかぜ・梅雨・西日・入梅・夕立・夕焼け・端午
朝顔・柿・菊・栗・西瓜・すすき・野菊・萩・彼岸花・糸瓜へちま(実)・鬼灯ほおずき・松茸・曼珠沙華まんじゅしゃげ木槿むくげ・紅葉・桃(実)・林檎(実)・天の川・稲妻・霧・残暑・月・露・流れ星・野分のわき星月夜ほしづくよ・三日月・名月・秋立つ・秋深し・十六夜・七夕
落葉・枯れ尾花おばな枯野かれの寒椿かんつばき山茶花さざんか・水仙・蜜柑みかん・鴨・寒雀かんすずめ・鷹・鶴・白鳥・鷲・木枯らし・小春・時雨・霜・短日・雪・初雪・大晦日・師走
[2-2]
2-2:俳句(無題)
年代:不詳
館蔵天野家文書
[2-2]
うくいすを きこうとせしも いく朝そ  萬山

 春の季語である「鴬」を入れて詠んだ俳句で、鴬を待ちわびる心情を詠んだもの。作者は「萬山」とあるが、人物の詳細は不明。
[2-3]
2-3:和歌「鴬告春」
年代:江戸時代後期
館蔵天野家文書
[2-3]
いとはやも 春はきたれり わかやとの
軒端のむめに 鴬のなく     遠謨

 春を告げる鴬を題に詠んだ歌で、我が家の軒先の梅に鴬の鳴く姿をみて、こんなに早く春がきたという意味の歌。下の句の「むめ」は梅のこと。作者は、江戸時代の武士で天野藤内遠謨という人物である。
[2-4]
2-4:
和歌「右近の馬場のさくらを」
年代:江戸時代後期
館蔵天野家文書
[2-4]
物部もののふの 鞭うつ袖も にほふまて
うま場のさくら 今盛なり  保行

 2-1と同じ作者である深川屋の主人だった保行が詠んだ春の季節の歌。題にある「右近の馬場」とは、右近衛府うこんえふに属する馬場のことで、右近衛府とは、宮中の警備などを担当する近衛兵を統率する役所のこと。歌の意味は、馬に鞭をうつ近衛兵の袖からも匂いが漂うほど、馬場に咲く桜は今が盛りであるというもの。「物部もののふ(武士)の」は、枕詞。
[2-5]
2-5:和歌「暑」
年代:不詳
館蔵田中(稲)家文書
[2-5]
結ひてし 岩井の水も たちまちに   
ぬるむはかりの あつさなりけり  敬賢

 関町にあった商家、田中家に伝わった和歌で、敬賢という人が夏の季節を詠んだ歌。「むすひてし」の「むすぶ」には、同じ音で「むすぶ」という言葉があり、「掬ぶ」には水をすくうという意味がある。また、「岩井」には、岩の間から湧く水を利用した井戸という意味がある。つまり、この歌は、すくった岩井の水(井戸水)もすぐにぬるくなるほどの暑さであったという意味である。
[2-6]
2-6:
和歌「織女によみてたむける夏の中に」
年代:近代以降
館蔵天野家文書
[2-6]
さなからに うつしとめはや こよひこそ
ねかひたくひの ほし合のかけ     

 題からわかるように七夕を詠んだ歌である。作者は裏面に「三屋」とある。下の句の「ほし合」とは、7月7日の七夕に牽牛と織女の2つの星が出会うことで、旧暦であれば七夕は初秋である。この歌は新暦になった明治以降に、現在の夏の季節にあたる七夕を詠んだ歌で、今宵こそは、そのままに写し留めたいものだと牽牛と織女の姿に願いを託したという意味である。
[2-7]
2-7:漢詩(無題)
書写年代:不詳
館蔵個人文書
[2-7]
今霄織女渡天河 朧月微雲一似

 これも七夕を詠んだ漢詩で、今宵は織女が天河を渡る、朧月微雲は、もっぱら薄衣に似ているという意味である。この詩は、『新撰朗詠集』に収載されており、中国の唐時代中期の詩人である白居易が詠んだ漢詩といわれている。
[2-8]
2-8:俳句「重九」
年代:不詳
館蔵加藤(明)家文書
[2-8]
今日おかし 菊の名を借る 常の酒

 この俳句の作者は国之という人で、菊という秋の季語を入れて、重陽の節句を詠んだ俳句である。9月9日におこなわれる重陽の節句では、菊の花を飾る他、菊酒を飲んで不老長寿を願う。この俳句は、いつもの酒でも重陽の日を名目に飲む今日は風情があるという意味である。
[2-9]
2-9:和歌(無題)
年代:明治時代ヵ
館蔵天野家文書
[2-9]
暮かゝる 秋の日かけに ひとしほの 
いろもますみの 宮のもみち葉  雅良

 これは、真澄神社の紅葉が夕暮れの日陰で色が一段と濃くなっているようすを詠んだ歌である。作者は「雅良」とある。「いろもますみの」の「ますみ」は色が増すという意味と亀山神社に合祀されて今はなき真澄神社の「ますみ」と二つの意味がある。
[2-10]
2-10:
和歌「鈴鹿山の営中に初雁をきゝてよめる」
年代:江戸時代末期
館蔵天野家文書
[2-10]
すゝか山 けふ聞そむる 雁かねは   
関路を越んと 名のるなりけり  遠謨

 この歌は、2-3の作者と同じで、天野藤内遠謨が詠んだ和歌である。幕末に遠謨が鈴鹿峠を警衛中に、初雁を見て詠んだ歌で、「雁がね」は、俳句では晩秋の季語である。
[2-11]
2-11:和歌「窓外観寒菊」
年代:不詳
館蔵天野家文書
[2-11]
霜かるゝ 冬さしこもる 窓のとに  
をりからひらく 菊もありけり  重越

 この歌は、重越という人が詠んだ歌で、霜がかかる冬ごもりの窓の戸に、ちょうど花開いた菊もあったという意味。菊といえば、俳句では秋の季語であるが、ここでいう菊は題にあるように、冬に咲く寒菊のことである。
[2-12]
2-12:和歌「深山雪」
年代:不詳
館蔵天野家文書
[2-12]
山まつの いたゝき高き わしの巣も 
くつゝるはかり ふれるしら雪  南園

 この歌は、南園という人が詠んだ冬の季節の歌で、山の松の一番上の鷲の巣も崩れるほど白雪が降っているという意味である。

(2) 記録や手紙にみる季節

 日記は、毎日のできごとを日にち別に書きのこしたものである。大抵の日記は、年月日がきちんと記されているので、いつの季節のできごとか一目瞭然である。そして年間を通して書かれた日記には、いろんな季節のできごとが書かれており、読むことで、たくさんの季節を感じることができる。
 そこで、ここでは書かれた冬の季節にまつわるできごとを、日記だけでなく、そのほかの記録や手紙から紹介する。
[2-13]
2-13:
慶応四年正月起筆 戊辰日記 錦洞書房
年代:慶応4年(1868)
館蔵天野家文書
[2-13]
 これは、武士の天野錦洞斎が書いた慶応4年(明治元年/1868)の日記である。この日記には、ちょうど紅葉の季節である冬の10月22日(旧暦)に、小岐須渓谷にある石大神まで、天野のほか武士数人と商人の服部吉右衛門が連れだって遊山に行ったことが書かれている。
[2-14]
2-14:江戸での近況報告状
年代:江戸時代
館蔵加藤(明)家文書
[2-14]
 これは、江戸時代に江戸にいる水嶋正蔵から、加藤斎院へ近況を知らせた書状である。書中には、江戸城で冬の年中行事である玄猪御祝儀げんちょごしゅうぎがおこなわれたことが書かれている。
ちしき③
玄猪御祝儀げんちょごしゅうぎ
 江戸時代、徳川将軍家では、の日である10月の最初の亥の日に子孫繁栄・家系継続を願う行事をおこなった。これを玄猪御祝儀げんちょごしゅうぎといい、五節句ごせっくの行事とともに大事な年中行事の一つであった。
 玄猪御祝儀の日は、江戸づめ大名だいみょうは、夕方の決まった時刻に総登城そうとじょうするしきたりがあり、江戸城の桜田門さくらだもん大手門おおてもん篝火かがりびが焚かれた。登城すると将軍家より餅を与えられた。この餅を玄猪餅げんちょもち、またはもちという。この日に餅を食べる風習は、中国より伝わったもので、食べると無病息災に過ごせるといわれている。
[2-15]
2-15:奏者番秘録
年代:江戸時代
館蔵加藤家文書
[2-15]
 江戸時代の武士の役職の中で儀礼や行事をとりしきる役職に奏者番そうじゃばんという役職がある。この冊子は、亀山城主であった大名石川家の奏者番が、石川家における年中行事など職務に関するさまざまなことを記した記録である。この記録中には、石川家では毎年冬になると、12月1日に、お殿様から家臣へ川浸り餅をくだされることが記されている。
ちしき④
石川家と川浸かわひたもち
 記録にはないが、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣において、徳川方であった石川忠総の家臣たちは、真冬の川に浸かりながら戦っていた。そのようすを見た石川忠総は、餅を買い求めて家臣たちに配り、その結果、戦いに勝利したので、この餅を川浸り餅といったという話が伝わっている。ただ、この話は石川家の事績を記した大坂の陣の記録には出てこない。しかし、石川家では、毎年12月1日に、川浸り餅という名前の餅を家臣に配っていた事は、家臣の日記に記されている。
 そして、この餅は明治時代に商品化され、平成10年(1998)頃閉店するまで、亀山の銘菓として瓢軒ひさごけんで販売された。
[2-16]
2-16:
文政十丁亥年覚書三番 加藤秀繁
年代:文政10年(1827)
館蔵加藤家文書
[2-16]
 これは、江戸時代に、亀山城主石川家の家臣である加藤秀繁が書いた日記である。12月朔日ついたちの箇所に「川浸餅頂戴かわひたりもちちょうだい」と記載され、この日にお殿様から川浸り餅を下されたことが記されている。
[参考]
参考:
川ひたり餅(レプリカ)
館蔵資料
[参考]
 以前、瓢軒ひさごけんで販売していた川ひたり餅は、粒あんを求肥でくるんだ小さなお餅である。箱の掛け紙には、川浸り餅の由来が記載されている。