1.季節ごとの行事
 私達日本人は、昔より季節の節目を大切にし、季節の変わり目ごとに、無病息災、子孫繁栄、豊作などを願い、さまざまな行事をおこなってきた。
 このコーナーでは、収蔵品の中から、このような季節に関係する行事にまつわるものを紹介する。おもに、季節の変わり目を祝う日である節句にまつわる収蔵品や、その他、季節の行事で使われたものを紹介する。
(1) 節句

 節句は、もとは中国より伝わった風習であり、日本では、江戸時代に5つの節句が公的に制定された。これを五節句といい、1月7日の人日じんじつ(七草)の節句・3月3日の上巳じょうし(桃)の節供・5月5日の端午たんご(菖蒲)の節句・7月7日の七夕しちせき(笹竹)の節句・9月9日の重陽ちょうよう(菊)の節句には、神に供え物節供せっくをしたり、飾り物を飾って行事を行った。明治6年(1873)の新暦制定とともに五節句は廃止されたが、現在でも雛祭りや子供の日、七夕として今の時代にあわせた節句の行事が続けられている。ここでは、五節句の中から春の上巳じょうし(桃)の節供と初夏の端午たんご(菖蒲)の節句にまつわる収蔵品を紹介する。
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女雛・男雛・屏風・三方・御酒徳利
年代:不詳
個人寄託資料
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 春の桃の節句で飾られる雛人形は、けがれを移し災いを身代わりにうけてくれるといわれ、女の子の健やかな成長を願って飾られる。この雛人形は、全体的にきらびやかで、面長な顔や少し開いた口、細く白い手など、江戸時代に流行した享保雛きょうほうびなのような作りである。また、背後の屏風は、桜と雀の絵が描かれ「雀百迄おどり忘れす 天下大平 家内安全 千代の色そうかべる」と書かれている。その他、探幽と作者名が書かれているが狩野探幽とは別人である。
 そもそも雛人形は、女の子が誕生すると嫁方の実家から贈られるのが一般的であるが、市域では、戦前までは、雛人形を飾る家は少なかった。
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 段飾りでは、2段目に飾る三人官女と4段目に飾る随身。
 三人官女は、給仕などのお世話係のため、左から提子ひさげ、三方、長柄の銚子ちょうしを持っている。なお、この持ち物は関東風である。関西風の場合、三方ではなく島台になる。
 随身は、本来、近衛府の官人で天皇と皇后の外出時の付き人である。警護の役目を担っているため、太刀を下げ弓矢を持っている。雛飾りでは、老人を左大臣、若者を右大臣と呼ぶこともある。
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1-2(左):三人官女(年代:不詳/個人寄託資料)
1-2(右):随身(年代:不詳/個人寄託資料)
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 段飾りでは、3段目に飾る五人囃子と5段目に飾る仕丁しちょう
 五人囃子は、4人が太鼓・大鼓おおかわ小鼓こつづみ・笛の楽器を持ち、もう1人はうたい用の扇を持つ。
 仕丁は、衛士ともいい、外出時の従者である。それぞれ左から台傘だいがさ(日傘)、沓台くつだい立傘たてがさ(雨傘)を持つ。三人官女と同じく関東風である。関西風では、熊手、ちりとり、ほうきを持つ。
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1-3(左):五人囃子(年代:不詳/個人寄託資料)
1-3(右):仕丁(年代:不詳/個人寄託資料)
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 段飾りでは、食器類は3段目に高坏たかつき、4段目に御膳と菱餅をのせる菱台、7段目に重箱を飾る。
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1-4(左) :高坏(年代:不詳/個人寄託資料)
1-4(中央):御膳・菱台(年代:不詳/個人寄託資料)
1-4(右) :重箱(年代:不詳/個人寄託資料)
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1-5:御道具
年代:明治時代以降
個人寄託資料
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 展示している御道具は、箪笥・鏡台・針箱・火鉢・台子だいす(茶道具を入れる移動式の棚)で、段飾りでは6段目に並べる。台子は別の種類のものである。鏡台が柄鏡ではなく洋風であることから、明治時代以降の雛飾りと思われる。
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紙雛かみびなは、紙で作った男女一対の立ち姿の雛人形で、「神雛」ともいう。平安時代には、白紙で「形代かたしろ」と呼ばれた人形ひとがたを作り、3月最初のの日の節句(上巳じょうしの節句)におこなわれた無病息災を願う祓いの行事で飾られた。行事が済んだ後は、形代に身体のけがれや災いを移して川などに流した。紙雛は次第に人形化され、江戸時代には、紙に布を貼ったこのような形になった。
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1-6(左):紙雛(年代:江戸時代(伝)/個人寄託資料)
1-6(右):紙雛(年代:江戸時代(伝)/個人寄託資料)
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1-7:雪堂筆鍾馗図幟
年代:昭和時代
館蔵白沢家資料
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 この幟は、市内で使われていた端午の節句用のもので、初夏にちなんだものである。のぼりには、右手に剣を持ち、左手は鬼を捕まえた鍾馗しょうきの姿が描かれている。鍾馗は、科挙の試験に合格したものの容姿が原因で合格を取り消されたため自殺したと中国の唐の時代の故事に書かれた人物である。鍾馗の死後、玄宗げんそう皇帝が熱病にかかり、夢の中で2匹の小鬼の悪戯に悩まされたが、この鍾馗が現れて小鬼を退治した。夢から覚めた皇帝は、病気がすっかり治っていたという話である。この故事が日本に伝わり、日本では学業成就や悪霊・邪気・疫病えきびょうを払うとして鍾馗が信仰されるようになった。また鍾馗の閻魔大魔王にも似た容姿から、強い者の象徴とされ、端午の節句の幟に鍾馗の像が画かれるようになったのである。
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紙雛かみびなは、紙で作った男女一対の立ち姿の雛人形で、「神雛」ともいう。平安時代には、白紙で「形代かたしろ」と呼ばれた人形ひとがたを作り、3月最初のの日の節句(上巳じょうしの節句)におこなわれた無病息災を願う祓いの行事で飾られた。行事が済んだ後は、形代に身体のけがれや災いを移して川などに流した。紙雛は次第に人形化され、江戸時代には、紙に布を貼ったこのような形になった。
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1-8(左):鯉のぼり(真鯉)(年代:昭和30年代/館蔵近澤家資料)
1-8(右):鯉のぼり(緋鯉)(年代:昭和30年代/館蔵近澤家資料)
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 この鎧は、亀山神社の宝物の一つで、亀山城主石川家ゆかりの、端午の節句の鎧飾りである。本来、端午の節句は、家の玄関や軒先、屋根の上に菖蒲を飾り邪気を払う行事だったが、「菖蒲」が武道を尊ぶ意味である「尚武しょうぶ」と同じ発音であることから、鎌倉時代頃から、武家では、虫干しを兼ねて鎧が飾られるようになったといわれている。その後、時代の流れとともに現在のような鎧飾りになった。現在では、命をまもる武具である鎧は、男の子の身を守るという意味で飾られている。
 また、背後の幟旗は、鎧飾りとセットである。一つは「南無妙法蓮華経」の文字、もう一つは蛇の目文が3つ染め抜かれている。「南無妙法蓮華経」は石川家の菩提寺宗派の一つである法華宗によっており、蛇の目は石川家の家紋の一つである。
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1-9(左) :鎧飾り(玩具鎧)(年代:江戸時代/亀山神社寄託資料)
1-9(中央):幟旗(年代:江戸時代/亀山神社寄託資料)
1-9(右) :幟旗(年代:江戸時代/亀山神社寄託資料)

(2)行事で使われた道具

 節句以外にも季節ごとにさまざまな行事がおこなわれている。その中には、市内のそれぞれの地区で集まって行われる行事もあれば、家庭内や仲間内で行う行事もある。ここでは、収蔵品から主に春と冬の行事で使われた道具の一部を紹介する。
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1-10:羽子板飾り
年代:不詳
個人寄託資料
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 この羽子板は、「押絵おしえ」とよばれる絵を立体的にみせる技法を使った、飾ることを目的に作られた羽子板である。女の子が生まれると、厄払いや魔除け、健やかに育つようにとの願いをこめて初正月に贈られる風習がある。したがって、この羽子板は旧暦での春(新春)にちなんだものといえる。絵自体も女性の押絵の背後に桜が描かれるなど、春らしい構図となっている。
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1-11:朱塗提重
年代:近代以降
館蔵西谷家資料
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 これは、提重さげじゅうといい、春の花見に食事を持ち運べるように作られた重箱セットである。花見の始まりは、奈良時代に貴族の間でおこなわれた行事であったといわれる。提重さげじゅうは、「提げ重箱」ともいう。小さな三段重箱の他、御飯を入れる塗箱、お酒を入れる容器、塗椀などが収納できるようになっており、外箱の蓋はお盆としても使えるようになっている。なお、外箱は、取り出しやすいように三方がハート形の猪目いのめとよばれる形にくりぬかれており、かわいらしさがある。
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 旧暦10月(亥の月)の最初の亥の日におこなわれていた行事に亥の子がある。収穫祝いや子孫繁栄の意味があり、子供達が、石やその年に収穫した藁で作った棒で、地区の家々の庭の地面をついてまわる。展示している藁製の棒は、安坂山町(安楽)と山下町で作られたもので、安坂山町では、現在は、旧暦10月の十五夜の日に亥の子が行われている。山下町で作られた棒は、安坂山町で作られた棒と形状が少し違い、藁の先の持ち手にあたる部分を輪っか状にしてある。近年では、旧暦10月は11月にあたり、山下町も毎年11月に亥の子をおこなっている。どちらも冬の季節にまつわる収蔵品である。
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1-12(左):安坂山町の亥の子の行事で使う藁製の棒
(年代:平成時代/館蔵西村家資料)
1-12(右):山下町の亥の子の行事で使う藁製の棒
(年代:平成時代/館蔵西川家資料)