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凡例  1.日本書紀の編さんと解釈  2.日本武尊と弟橘媛の物語  3.日本武尊の死 −「能褒野」を考える− 
4.日本武尊と現代 −社会とのつながり−  協力者・参考文献・出品一覧

第4章 日本武尊と現代 −社会とのつながり−

 日本武尊(やまとたけるのみこと)は、1300年前に編さんされた『日本書紀』『古事記』に登場します。『日本書紀』からは戦いによって国を形作る武人、『古事記』からは古代の悲劇の英雄といったイメージを抱くのではないでしょうか。そこには、『日本書紀』『古事記』の編さん者たちのイメージが反映されているとみることができるように思われます。
 江戸時代以降に出版された典籍や詠まれた和歌などに登場する日本武尊は、剣で草を()ぎ払って戦ったという焼津の場面が多くとりあげられています。この場面が、彼を表すイメージとして次第に固定化していくようです。戦前の教科書の挿絵や、歴史絵画として描かれる際にも選ばれています。三種の神器のひとつ「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」の由来となる物語であることが、その要因とも考えられます。人々にとって日本武尊として想像される代表的なイメージは、国をまとめるために戦う強い武人ということだと思われます。
 また、亀山市は、日本武尊最期の地であり、妃の弟橘媛(おとたちばなひめ)ゆかりの地でもあります。改めて亀山市と日本武尊、弟橘媛とのつながりを見てみると、最も大きなものは、祭神として日本武尊を祀る能褒野(のぼの)神社(亀山市田村町)の創立と考えられます。明治12年(1879)に丁子塚(ちょうしづか)が「日本武尊 能褒野墓」と決定された後、創立されました。川崎村内の神社を能褒野神社へ合祀、県社への昇格運動、参道の整備など、地域が支えてきた神社という側面があります。また、忍山(おしやま)神社(亀山市野村四丁目)は、弟橘媛生誕の地とされています。
 その他にも、名所旧跡として絵葉書の題材や祭礼(のぼり)に用いられ、近年では、神楽や市民ミュージカルなどの作品のテーマにもなっています。亀山市では、日本武尊が白鳥(しらとり)と化して降り立った地である大阪府羽曳野市、奈良県御所市と「日本武尊・白鳥伝説三市交流事業」を進めています。現在も制作されつづける様々な作品や人々の交流は、市民の思いが結実したもので、それぞれのイメージを反映した豊かな表現が行われ続けています。

(1)今日に伝わる日本武尊

 日本武尊は、『日本書紀』が成立した8世紀にとどまらず、その後も古代の英雄としてのイメージが保たれました。全国を平定するも、最期にふるさとを思い帰郷の途次で力尽きて亡くなる様は、人々に強く印象づいたのかもしれません。
 江戸時代以後の資料では、日本武尊の代表的なシーンを語る、描くとなると、焼津で謀略にあい、剣で草を薙ぎ払って難を逃れるシーンが多く選ばれるようになります。日本武尊のイメージは、草薙剣と一体化しているのではないかと思われます。
 また、日本武尊の妃である弟橘媛も、イメージ化されています。東国での戦いに向かう際、馳水(はしるみず)で入水し、自らの命をかけて日本武尊を助けました。無償の愛を捧げた女性と考えられているようです。こうした両者のイメージは、現在も引き継がれているのではないでしょうか。


60 神道野中の清水 巻之三
   享保18年(1733) 伊藤家
 伴部安崇(ともべやすたか)による、神道の解説書。神国に生まれた者が読むべき『日本書紀』を幼学のレベルでも読めるようにしたと記します。本書には、日本武尊、弟橘媛命といった項目が設けられています。日本武尊は、最期に白鳥となって飛び立ち遺骸が残らなかったことを「上代の神聖、(ためし)ある事」とし、弟橘媛は、馳水での入水によって命をかけて日本武尊の戦いを助けたことを「忠心純粋ありがたき媛君(ひめぎみ)」と評します。


61 玉鉾百首解 下巻
   寛政11年(1799) 伊藤家
 本居宣長が古道について詠んだ百首の歌集『玉鉾百首(たまぼこひゃくしゅ)』に対する、本居大平(おおひら)の注釈書。
 宣長は、「ひむかしの国 ことむけて みつるぎは あつ田の宮に しつまりいます(東の国 言向けて 御剣は 熱田宮に 鎮まりいます)」との歌を詠んでいます。大平は、御剣とは草薙剣のことで、倭建命が東国を平治する際、神威によって助けたものであると解説します。


62 中臣大祓図会 巻之下
   嘉永5年(1852) 伊藤家
 神道で重視される「中臣祓(なかとみのはらえ)」の祝詞(のりと)に対する注釈書。「彼方屋(おちかたや)繁木加本於(しげきがもとを)焼鎌乃(やゐかまの)敏鎌於以(とかまをもつて)打払事乃(うちはらふことの)如久(ことく)」の注釈として、日本武尊が焼津において、謀略から逃れるため剣で草を薙ぎ払った場面を引用します。さらに、わかりやすくその場面を描いた図を添えています。


63 社日祭悪神除万民守護之尊像
   江戸時代後期 亀山市歴史博物館
 三十柱の神名と二十柱の尊像の摺写。春分・秋分に最も近い(つちのえ)の日に執行される、土地神に対する祭礼で用いられる尊像図とみられます。日本武尊もその一柱として、中央に配されています。「火防悪魔除之守護神(ヒフセアクマヨケノシユゴジン)」とされ、剣を抜いた姿で描かれています。
社日祭悪神除万民守護之尊像


64 尋常小学国史 上巻
   昭和13年(1938) 亀山市歴史博物館
 尋常小学校で使用された国史の教科書。人物によって歴史を学ぶ形式をとっており、上巻は、天照大神から後奈良天皇までの項目があり、三項目目が日本武尊です。日本武尊の一生を紹介し、皇子でありながらも全国平定を行い若くして亡くなったこと、平定により全国がおだやかになったことをまとめとします。挿絵には、焼津での剣で草を薙ぎ払う場面を用いています。
尋常小学国史 上巻
尋常小学国史 上巻
尋常小学国史 上巻
尋常小学国史 上巻


65 尋常小学国語読本 巻九
   昭和5年(1930) 亀山市歴史博物館
 尋常小学校で使用された国語の教科書。弟橘媛の項目は、『古事記』にしたがってまとめられています。挿絵は、走水海(はしりみずのうみ)での入水の場面です。
尋常小学国語読本 巻九
尋常小学国語読本 巻九


66 渡部審也 国史絵画「日本武尊」
   昭和時代前期 神宮徴古館
 昭和8年(1933)の皇太子殿下(現上皇陛下)誕生を記念し、建設予定であった養正館(東京都港区南麻布・有栖川宮記念公園)に国史絵画展示が計画されました。55人の当代一流の画家に依頼して作成され、昭和17年に完成したものが、全78点の国史絵画です。
 渡部審也(わたなべしんや)による「日本武尊」は、焼津において剣で草を薙ぎ払って戦う場面を描いています。本図の日本武尊は、倭姫命(やまとひめのみこと)から授けられた剣を抜き、腰に火打石の入った(ふくろ)を下げています。凜々しい顔立ちや頑健な肉体を持つ、勇猛果敢な男性として描かれています。


67 伊東深水 国史絵画「弟橘媛」
   昭和時代前期 神宮徴古館
 同じく国史絵画として作成された1点。伊東深水(いとうしんすい)による「弟橘媛」は、相模国(さがみのくに)から上総国(かずさのくに)へ海を渡る際、暴風によって荒れた海を鎮めるため入水した場面を描いています。白く泡だつ荒波の中へ、静かな面持ちで祈りながら飛び込んでゆく女性の姿は、日本武尊への無償の愛を感じさせます。
 また、平成10年(1998)に国際児童図書評議会第26回世界大会において皇后陛下(現上皇后陛下)が基調講演を行われました。その際、子供時代の読書の思い出として、弟橘媛の物語に強い衝撃を受け、愛と犠牲という二つのものが一つのものとして感じられた不思議な体験であったと述べられています。まさに、本図に描かれた場面のことではないでしょうか。


68 日本通貨変遷図鑑
   昭和32年(1957) 亀山市歴史博物館
 右ページ下段にある千円券には、表に日本武尊と建部大社(たけべたいしゃ)本殿(滋賀県大津市)を描いています。昭和20年(1945)8月17日に発行され、当時最高額の紙幣でした。


69 特殊切手 古事記編纂1300年
   平成24年(2012) 個人
 平成24年に古事記編纂1300年を迎えることを記念して発行された特殊切手。右列の1・3・5段目が、倭建命(やまとたけるのみこと)を描いています。デザインは、堂本印象(どうもといんしょう)による「火退(ほそけ)」(宮内庁三の丸尚蔵館所蔵)を元にしています。

(2)亀山市と日本武尊

 亀山市域には、日本武尊に関連するものがいくつも作られています。丁子塚(能褒野王塚古墳)が陵墓決定される明治12年(1879)以前にも、日本武尊や弟橘媛を詠み込んだ歌が作られています。決定後は、さらにその動きが活発になっています。能褒野神社の創立と整備、地域での祭礼、名所旧跡としての絵葉書作成、刊行歌集への関連歌の採録などが行われています。
 日本武尊とその妃の弟橘媛は、市域で親しまれるとともに、作品からは、ふたりが全国的にも知られた存在であることがうかがわれます。様々な作品づくりは現在も続けられ、多様な日本武尊像が形成されています。


70 祖先神号短冊
   江戸時代末期〜明治時代初期 亀山市歴史博物館
 神官、国学者の御巫清直(みかんなぎきよなお)が、祖先神号を歌題として詠んだ6首の歌短冊を軸装したもの。当時、忍山(おしやま)神社神官家であった大久保家に伝えられていました。特に、下段の三首は、忍山神社に関係深い大水口宿禰命(おおみなくちすくねのみこと)忍山宿禰(おしやまのすくね)、弟橘媛を歌題としています。弟橘媛は日本武尊の妃で海へ飛び込み尊を助けた女性、忍山宿禰はその弟橘媛の父、大水口宿禰は忍山宿禰の祖先という関係です。
祖先神号短冊


71 歌短冊
   江戸時代後期 石見雅之家
 江戸時代に商家であった石見家に残された歌短冊。歌題は「日本武尊」で、日本武尊の東国への戦いに向かう気持ちが詠み込まれています。石見家には、「本居春庭門人録」に享和2年(1802)、「藤垣内門人姓名録」に翌3年の項に石見甚蔵(音清)が記されており、本居春庭(はるにわ)大平(おおひら)の門人と認められた人物がいます。本歌の詠者である栄志の背景は明らかではありませんが、その他の歌短冊の中には、他の門人による歌短冊も伝えられていることから、国学や和歌などを通じた交流の中で詠まれたのではないかと推測されます。


72 武備神社御再興覚書
   江戸時代中期 田上家
 武備神社神主の金森安芸守(あきのかみ)が記した神社再興の記録。「武備神社御再興由緒書」と寄進の記録で構成されています。由緒書には、享保14年(1729)から16年にかけて、亀山城主板倉勝澄(かつずみ)が神社の整備を進めたことが記されています。
 具体的な寄進の記録によれば、亀山城主の板倉勝澄と石川総慶(ふさよし)、家臣、大庄屋、長沢村村役による寄進や税金免除が行われ、神社と日本武尊の故地とされる宝冠塚(ほうかんづか)宝裳塚(ほうしょうづか)の並木や石標の整備が進められました。前武備(たけび)神社であった現在の長瀬神社の境内には、享保16年に亀山城主の家臣である板倉杢右衛門(もくえもん)が寄進した石灯籠が残されています。


73 国民歌集
   明治42年(1909) 伊藤家
 佐佐木信綱によって、広く国民に伝えることを目的として、忠君愛国の情をうたったものを中心に約660首を集めた歌集。そのうちの1首として、『古事記』に載せる弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)の歌を採録しています。走水海(はしりみずのうみ)で入水する際に、倭建命(やまとたけるのみこと)との焼津での戦いを思い出し詠んだ歌です。


74 弟橘媛
   大正12年(1923) 伊藤家
 鈴木松華(松太郎)の作歌、髙木旭簡の作曲による歌譜。鈴木松太郎は、大正9年(1920)から14年まで明治神宮権宮司を務め、その間に本作品を発表しています。日本武尊の生涯を語る中で、特に弟橘媛の馳水(はしるみず)での入水の前後に力点を置いた内容ですが、『古事記』と『日本書紀』を基本としながらも、鈴木の独自の見解を含むものです。
 また、本資料には、鈴木から能褒野神社宮司の伊藤忠孝宛の葉書が同封されています。鈴木は伊藤に、「弟橘媛」に対する率直な意見を求めていることから、作品制作には伊藤の協力があった可能性もあると思われます。


75 能褒野の光
   昭和2年(1927) 伊藤家
 能褒野神社は、明治12年(1879)の「日本武尊 能褒野墓」決定により、墓の側に神殿を創立することとなり、16年に久邇宮朝彦(くにのみやあさひこ)親王殿下より「能褒野神社」との神号の選定があり、17年、創立の運びとなりました。その後、能褒野保勝会が設立され、大正14年(1925)には念願の県社昇格を果たしました。本書は、同年10月9日に行われた県社昇格奉祝会の様子をおさめた写真を掲載しています。
 また、印刷は亀山町の加藤活版所が行っています。能褒野保勝会の亀山町発起人には、旧武家・商家・政治家らが名を連ねており、地域に支えられた神社であったことがうかがえます。

 能褒野保勝会の活動の痕跡 

能褒野神社(三重県亀山市田村町) 能褒野神社一の鳥居(三重県亀山市御幸町) 能褒野神社二の鳥居(三重県亀山市栄町)
能褒野神社(三重県亀山市田村町)
能褒野神社一の鳥居(三重県亀山市御幸町)
能褒野神社二の鳥居(三重県亀山市栄町)
能褒野神社道標(三重県亀山市田村町)
能褒野神社道標(三重県亀山市田村町)


76 能褒野王塚古墳・能褒野神社絵葉書
   明治時代・大正時代 個人
 能褒野王塚古墳・能褒野神社の写真が用いられた絵葉書。「日本武尊参拝記念能褒野神社」のスタンプが押されたもの、亀山町内の加藤書店や三ツ輪屋などが発行したものがあります。日本武尊の墓である能褒野王塚古墳・能褒野神社が、名所旧跡のひとつとして認識されていたことがうかがえます。


77 樹脂粘土人形 日本武尊・弟橘媛
   現代 渡辺香里作
 粘土工芸作家である渡辺香里氏の作品。日本武尊と弟橘媛とともに能褒野王塚古墳も作られています。


78 タケル舞
   現代 亀山市歴史博物館
 平成の初め頃、亀山青年会議所が行った「タケル舞」です。
タケル舞
タケル舞
タケル舞


79 古代浪漫ミュージカル「TAKERU」関係資料
   現代 宮村聡史家
 古代浪漫ミュージカル「TAKERU」は、亀山市に日本武尊の墓があることにちなみ、小嶋希恵氏の脚本・演出による新作ミュージカルとして誕生しました。
 初演は、平成26年(2014)、プロの俳優とともに市民も参加して行われました。第2回は平成28年、市民ミュージカル劇団である「亀山ミュージカル劇団“KAMEμ(カメみゅ〜)”」の旗揚げ公演として行われ、劇団用のアレンジを加えて上演されました。その後も、日本武尊の妃である弟橘媛をテーマとした「弟橘姫物語」を上演するなど、日本武尊に関するミュージカルが上演され続けています。


80 祭礼幟・幟漢詩書蹟
   幟:明治44年(1911) 書蹟:昭和時代 川崎町柴崎自治会
 明治時代末期から昭和時代前期頃まで、祭礼前日に氏神を招き、家内安全・五穀豊穣を祈るという地区の秋祭りで立てられていました。明治41年(1908)、柴崎の志婆加支(しばかき)神社が能褒野神社に合祀されていることから、同44年に「日本武尊」を含む新たな(のぼり)が作成されたのではないかと思われます。
 染め抜かれた「東征西伐日本武尊」「南船北馬皇威赫灼(かくしゃく)」の語には、日本武尊による東から西までの戦いと平定によってもたらされた王権の求心力がよくあらわされています。
 また、幟に染め抜かれた漢詩は、地区の方によって書き写され軸装の後、地区で大切にされています。


81 日本武尊・白鳥伝説三市交流事業
   平成26年(2014) 亀山市総合政策部政策課政策調整グループ提供
 亀山市は、平成10年に「日本武尊・白鳥伝説ゆかりの地、御陵のあるまち」としての縁により、大阪府羽曳野市(はびきのし)、奈良県御所市(ごせし)と都市間交流の合意を交わし、市民交流を行っています。直近の亀山市での開催は、平成26年のことでした。この際は、能褒野王塚古墳の見学、神楽「ヤマトタケル男舞」や古代浪漫ミュージカル「TAKERU」の鑑賞などが行われました。


82 日本武尊巡りマップ
   平成31年(2019) 川崎地区まちづくり協議会
 能褒野王塚古墳、能褒野神社のある田村町を地区内に持つ、川崎地区まちづくり協議会が作成したマップです。能褒野王塚古墳と能褒野神社をはじめ、地区内の見所を紹介しています。裏面は、「峯城跡散策マップ」となっており、地区内の名所旧跡を楽しめるよう、紹介されています。地域の歴史を地域の方に詳しく知ってもらおう、という目的で作成されました。

 亀山市で見られる日本武尊の姿 

名阪工業団地配水池(亀山市太岡寺町) 日本武尊石像(亀山市井田川町)
名阪工業団地配水池(亀山市太岡寺町)
日本武尊石像(亀山市井田川町)

   


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