4.元大名石川家と亀山の士族たちの絆
明治になって、制度的に武士達の主従関係がなくなった時、亀山城主であった石川家は元家臣達に度々下賜金を配ったり、士族授産にも協力的であったりと、元家臣達との絆もうかがえます。そしてこの関係は、最後の城主であった成之が死去して石川家を養子である成徳が継いだ後も続いています。ここでは、このような絆が窺える史料を一同に出品し、絆や先人達の想いに触れます。 |
①石川成之から亀山士族への下賜金 版籍奉還によって、主君と家臣の関係が成り立たなくなったことは、これまでの展示で紹介したとおりです。版籍奉還後の藩制改革によって士族・卒の禄米も削減となったため、石川成之は旧家臣達へ金銭を下賜したり、明治政府から与えられた家禄の一部を藩庁へ差し出しています。このように、石川成之が元家臣達のことを気にかけていた事がうかがえます。 |
②石川成秀の亀山訪問 大正12年(1923)8月に、石川成之の孫の子爵石川成秀(貴族院議員)が娘と息子を連れて亀山神社に参詣し、士族達と交流をもっています。 また、成秀は、昭和11年(1936)にも婦人同伴で亀山を訪れています。この時も亀山神社で記念撮影をしています。 |
台紙裏の記録によれば、子爵石川成秀は左から4人目、その右側が令嬢、左側が令息です。 4-3:旧藩主石川子爵御亀来の節亀山神社境内に於いて 大正12年(1923) 館蔵加藤(五)家資料 平コン1-86
4-3の写真と同じ日に撮影されたもので、参拝する令嬢・令息のようすを写したもの。 4-4:石川子爵一家の亀山神社参拝における令嬢・令息後ろ姿 明治3年(1870) 館蔵加藤(五)家資料 平コン1-88
台紙の裏の記録によれば、昭和11年11月17日に亀山神社の前で撮影したもの。中央の洋装の男女が石川成秀とその夫人です。 4-5:子爵石川成秀君が婦人同伴で来亀の際亀山神社社前で撮影した集合写真 明治3年(1870) 館蔵加藤(五)家資料 平コン2-1 |
③士族達の活動-亀山同盟報徳会- 亀山の士族達は、有志で「亀山同盟報徳会」をつくり、石川家の中興の祖である石川家成の死後300年を記念した祭の挙行や、家成の荼毘所(愛知県岡崎市)に記念碑を建てるなど、さまざまな活動をしています。 ここでは、この「亀山同盟報徳会」の活動について紹介します。 |
③-1 石川家成300年祭 明治41年(1908)、亀山同盟報徳会では、石川家成の300年祭をおこなっています。ほとんど史料はのこっていませんが、この50年前にも250年祭を開いています。この300年祭を開催した場所は不明ですが、集合写真を撮影した場所は亀山神社と思われ、石川成秀と女性(母正子か妻尚子かは不明)、成秀の兄弟の成清と成房が写っています。 |
社殿には、石川家の笹竜胆の家紋のはいった陣幕がかけられています。最前列で椅子に座っているのが、石川成秀とその家族です。 4-6:石川家成公三百年祭集合写真 明治41年(1908) 館蔵加藤(五)家資料 平コン2-12-1
亀山同盟報徳会主催で明治41年(1908)年8月21日に開催された石川家成300年祭の余興では、昼の部と夜の部に分かれて煙火の競技会が行われました。 4-7:石川家成公三百年祭余興煙火競技会一覧表 明治41年(1908) 館蔵図書館移管文書28 |
③-2 石川家成の荼毘所に記念碑を!! 大正7年(1918)10月28日、亀山同盟報徳会は、石川家成の事跡を後世に伝えるために、石川家成の荼毘所横に「石川家成公荼毘之碑」を建立しました。碑文の題字は公爵の徳川家達に、本文は佐々木信綱に依頼しています。「荼毘之碑」を建立した場所は、石川家成と室(妻)の善揚院ゆかりの寺である善揚院が建っていました(現在は移転)。江戸時代、石川家の家臣達は、度々代参に訪れています。 |
荼毘所とは? 大名石川家の中興の祖である石川家成は、現在の愛知県岡崎市にある大樹寺に帰依していました。家成は、永禄9年(1566)に、石川家代々の墓所と武運長久の祈願所として、この大樹寺の山内に、徳川家康の許可を得て寺院を建立します。この寺が善揚院です(現在は移転)。
なお、家成の室(妻)は、天保3年(1832)に執行された250回忌の際に、寺名と同じ「善揚院」の名がおくられています。 |
この祝辞には、家成の死去について、「天正十四年十月廿九日遂ニ美濃大垣城ニ薨セラル」と書かれていますが、正しくは、慶長14年(1609)10月29日です。 4-8:石川家成公荼毘所除幕につき祝辞 大正7年(1918) 館蔵加藤(五)家文書 旧1-7-11-7
この書類から、愛知県岡崎市の石工、鳥居常吉へ石碑を発注したことがわかります。ここには、詳細な仕様や設計図、それにかかる金額が書かれ、亀山同盟報徳会の発注内容もうかがうことができます。 4-9:石川家成公建碑工事・石設計図・碑文彫刻見積書につき請書 大正7年(1918) 館蔵加藤(五)家文書 旧1-7-11-2
碑文の本文は、現鈴鹿市石薬師町出身の歌人で国学者の佐佐木信綱が選定し、文字は愛知県の熱田出身の書家で、歌人でもある岡山高蔭が書いています。 4-10:碑文写(公爵徳川家達題字)佐々木信綱選
大正7年(1918) 館蔵加藤(五)家文書 旧1-7-11-1
石川家成公荼毘の碑除幕式における、子爵石川成秀の祭詞。 4-11:石川家成公荼毘の碑除幕式祭詞
大正7年(1918) 館蔵加藤(五)家文書 旧1-7-110
この冊子によれば「石川家成公荼毘之碑」の建碑発起人は、幹事 石川直記・瀧見極、評議員 市橋正発・林豊次郎・加藤正斎・米川六次郎・松本義一・菊田秋太郎・平岩鋭蔵、東京支部幹事 岩城確・佐本光暉、評議員 入山祐次郎・川上瀧男・吉川等・中村愛三・打田廉・黒田甲子郎・船橋善弥です。そして費用は、旧亀山藩士ら201人の寄附によって賄われました。
「石川家成公荼毘之碑」の現在のようす。 所在地:愛知県岡崎市鴨田町 4-13:石川家成公荼毘之碑の現状
令和元年撮影 |
③-3 亀山城で唯一残った多門櫓を直すぞ!! 大正7年(1918)7月31日、亀山同盟報徳会は、現在も残っている本丸東南隅櫓(多門櫓)の屋根で腐って朽ちている部分を修復するため、三重県知事に補助金の申請をしました。ここで紹介する史料は、その時に提出した書類の控です。書類には、「若シ之ヲ失フ時ハ全然亀山城跡ヲ認めムベキモノ更ニ無之」と、唯一残った多門櫓が朽ちて無くなってしまうことを危惧し、役員会での決議により修復が決まったことを記しています。 |
この書類は、亀山城本丸東南隅櫓(多門櫓)の屋根を修復するための補助金の申請書です。修復の理由として、この場所が旧城跡趾であるという面影は無く、この隅櫓を失えば、亀山城跡と認められるものが全く無くなることや、安政の震災後に修築して以来、旧藩士や領民が維持保に腐心してきたが、近来、屋根垂木やその他の主要部分が腐朽しているので端的修繕が必要になったことなどがあげられています。
この書類は、亀山城本丸東南隅櫓(多門櫓)の屋根の修復箇所を示した平面図です。朱線の箇所が修復箇所です。 4-15:亀山旧城隅櫓屋根平面図 大正7年(1918) 館蔵加藤(五)家文書 旧1-7-12-2 |