3.亀山の士族たちの動向
廃藩置県により、亀山の士族達は無職となりました。2コーナーでみてきたように、士族達には秩禄が支給されましたが、生活費として十分ではなかったうえ、支給も途中で打ち切られます。 このような状況のなか、亀山の士族達は、生きていくためにどうしたのでしょうか。このコーナーでは、亀山での士族授産や士族による起業について、生活していくために悩み、模索した様子を紹介します。 |
①亀山の人も岩倉使節団に随行しているよ。 明治4年(1871)年、幕末に締結した不平等条約の改正や欧米諸国の制度や産業・文化などの視察のために、岩倉具視を全権大使とした岩倉使節団が欧米に派遣されました。この使節団には、約50人の留学生の他、多数の随行者がいました。あまり知られていませんが、亀山からも近藤鐸山(元家老)の次男の近藤幸止がこの使節団に随行して、アメリカに留学しています。 |
②亀山でもいろんな士族授産事業があったみたい。 明治政府は、職を失い困窮した士族の救済政策として、官有地の林野を払い下げて開墾させたり、北海道への移住など、農業や商業によって収入を得させようとしました。亀山でも、広瀬野開墾事業や茶園開墾計画・緞通事業など、さまざまな授産事業が計画され、実行に移されました。ここでは、このような亀山で行われた士族の授産事業について紹介します。 |
②-1 広瀬野開墾事業 亀山での士族の授産事業の1つとして、広瀬野の開墾事業があります。この事業は、版籍奉還の翌明治3年(1870)という比較的早い時期に計画されました。武士の多くは、元をただせば戦国時代以前は農民であったことから、本来の農民に戻すべきという考え方(帰農法)が当時の政府内外にあり、この広瀬野開墾事業の目的1つには、士族達の帰農をもくろんでいました。 |
亀山藩の罫紙に書かれた書状です。様々な事柄が書かれている中に、広瀬野の開拓についても書かれています。この開拓地となった広瀬野は、現在の鈴鹿市広瀬町の一帯です。 この書状から、広瀬野の開拓は「士卒へ分配」のために行われたこと、水路のない地で、龍ヶ池の堤防を嵩あげして用水を得ようと考えていたことがうかがえます。
この史料は、3-3の史料の広瀬野の開墾に関する、明治政府への伺いです。亀山藩は広瀬野だけでなく能褒野の開墾についても伺いを立てています。なお、開墾した土地に新田や新畑を開き、桑や茶を植え付けたいと述べています。 3-4:支配地広瀬野能褒野開墾之儀伺 明治3年(1870)
国立公文書館所蔵史料 公副179
亀山藩が広瀬野と能褒野の開墾を政府へ願い出た翌年に、江戸時代に広瀬野を鷹場としていた名古屋藩からも、同地の開拓願いが政府へ出されました。亀山藩は、同地が亀山藩の管轄であることや、開墾後は税収と士卒の帰農を見込んでいるので、他藩が開墾をすれば自藩の目途が立たなくなることを訴えています。この史料から、亀山藩が広瀬野や能褒野の開墾によって、職を失った士族や卒達の帰農への道を模索していたことがうかがえます。 |
②-2 士族・卒の帰農-茶園開墾計画- 明治時代初期におこなわれた、士族や卒に帰農を促す開墾計画は、亀山管内では、広瀬野地域だけでなく、それ以外の村々の林野も、開墾の対象として計画されたようです。その1つとして、亀山管内のあちこちの林野を開墾し、茶園にしようという動きがありました。実際の成果は不明ですが、ここでは、この茶園開墾計画について紹介します。 |
この建白書は、茶園や桑畑に開墾する計画があったことがうかがえる史料です。この建白書によれば、亀山県が計画した士族授産の方法は、管内の山林原野のや荒蕪を開墾して、士卒約800戸へ分与し帰農させるものです。そして、開墾後の土地に租税をかけ、この歳入で亀山県が抱える負債の償却をしようとしました。この建白書によれば、開墾にかかる莫大な費用は、士卒の禄米を10年間このまま頂戴し、その一部を宛てることで入費の5分の1を賄い、残りは管内通用の金券を発行して賄おうとするものです。 なお、この建白書は、制度上では亀山県から安濃津県となった1ヶ月後の明治4年12月に、亀山県名で提出されています。
この史料は、3-6の建白書に書かれた荒蕪地開墾計画について、さらに詳細を書いた計画書です。管内の開墾地として現市域では、和田・川合・田村・海善寺・阿野田・菅内・野尻・落針・新所・鷲山・小野・羽若・白木・住山・太岡寺の村々の林地や野地があげられています。 そして、畑方生産見込として、製茶についての人件費や諸経費、見込み価格が記され、3-6の史料に記載された桑については一切記述がありません。このことから、亀山県では、桑畑より茶園に将来性を見いだしていたのかもしれません。 |
②-3 室内用の敷物を織る。-緞通織事業- 緞通とは室内用の織物のことで、分厚い絨毯のことです。亀山での士族授産の1つとして、現在も残る亀山城本丸東南隅櫓(多門櫓)が、失業士族の木綿緞通織授産場として使われたことは、昔から知られていました。しかし、その緞通織事業の成果など、詳細については、ほとんど分かっていませんでした。 このたび、新たな史料がみつかったことにより、当時の緞通織事業のようすが少しみえてきました。そこで、ここでは、緞通織事業について新たに分かった内容を紹介します。 |
これは、緞通織事業を始めるにあたり、発起人による同盟の誓約書です。 発起人は、堀池鴎舟・佐藤左右・山田光次郎・加藤伴彦・加藤秀発・小寺直衛・天野遠正の7人で、全員が亀山士族です。この誓約書に書かれた誓約の1つ目に、創業の消耗費として100円ずつ預金するとあります。この誓約書は、亀山の士族達が設立した民間銀行である「本立社」に宛てて出されていますので、預金先も本立社と考えられます。
この雑記は緞通織事業の発起人の1人である加藤秀発が書き残したものです。この中の「日簿」のページには、明治14年(1881)6月に秀発が東京へ出張したことが記されています。東京では、根岸の石川従五位公(成徳)と老公(総紀)を尋ね、緞通や新茶を献上しました。 また、木挽町の起立工商会社へ出向き、緞通の取引についても示談しています。この起立工商会社は、当時、日本の美術品や物産品を輸出していた日本の貿易会社で、パリやニューヨークに支店を持っていました。このような貿易会社と示談交渉したということは、亀山で織られた緞通を、起立工商会社を通じて外国へ輸出しようと考えていたのかもしれません。
これは緞通織事業の発起人の1人である天野遠正が書き残したものです。これによると緞通織事業は、設立から4年で損失を出しています。 発起人達は、この損失を弁償するために、協議のうえ本立社へ借金をすることになりました。返済は発起人達がそれぞれ負担することになり、名義主である山田光次郎が200円、その他の発起人は169円ずつの負担額となりました。 なお、本立社の社長は発起人の1人でもある加藤秀発でした。
これは、緞通織事業及び紡績場事業の損失に対し、各自、分割負担の約束で定められた天野遠正の返済分169円の本立社宛の借用証書です。 証人は亀山町で開行した第百拾五国立銀行の西京支店に勤務していた、亀山士族の山田光次郎です。 |
②-4 石川公より金禄公債証書を借用 廃藩置県により職を失った亀山の士族達は、困窮して惨めな惨状だったようです。そこで、亀山士族の加藤秀発と堀池鴎舟は、亀山士族を代表して、その惨状を元主家の石川家へ訴え、石川成徳の金禄公債証書を借用しました。ここでは、藩主の金禄公債証書を借りておこなった授産金積立事業について紹介します。 |
この史料には、旧亀山藩士族の就産を目的とした積立をおこなうために、明治16年(1883)、元主家である石川成徳(子爵)に請願して、金禄公債証書を恩借したことが記されています。この結果、約1,900円を貯蓄することができたことや、この資金を各大字に配当し、「増殖保護ノ道ヲ尽シ」たことが記されています。
この約定書は、第百拾五国立銀行株式券状100株を担保に、石川成徳から金禄公債証書を10年間借用することを約定した書類です。 発起人は、亀山士族である加藤伴彦・加藤秀発・山田光次郎・堀池鴎舟・佐藤左右・小寺直衛・天野遠正の7人で、総代は加藤伴彦でした。
これは、石川成徳から借用した7,700円の金禄公債証書を抵当に、第百拾五国立銀行から5,000円を借用した借用書です。 3-14:借用金証書 明治17年(1884)
館蔵加藤(雅)家文書163
これは、石川成徳から借用した7,700円の金禄公債証書を積み立てた結果、得た収益と士族渡分を書き上げた書類です。収益は株主式売買益・銀行株式利益・本立社株式利益・諸益・利息からうまれた合計39,126円55銭2厘で、ここから諸経費や株式売買損などを引いた、1,932円93銭9厘が士族へ分配されました。
士族へ分配した収益1,932円93銭9厘について、その分配方法が記されています。一個人には分配せず、大字ごとに一纏めにして分配し、各大字ごとに協議して、1つの事業を企てるか、利倍増殖などの保管の道を立てるなど、計画を立てる事が決められました。 また、積立金の配当を受ける権利は、亀山町在籍の者に限られ、旧亀山士族であっても町外へ移転した者は、無関係と決められました。
3-16の史料の正式書類です。大字ごとに士族が連署、押印しています。これによれば、明治26年(1893)当時の亀山士族は、南崎に40人、若山に15人、住山に3人、北野村に16人、市ヶ坂に8人、東丸に125人、北山に91人、椿世に5人、南野に93人、旧館に14人、西丸に20人、中屋敷に7人、渋倉に8人、江ヶ室に26人、東台に17人いたようです。
亀山町大字旧館は、協議により、分配された就産積立金に対する銀行券2枚を売り払い、その代金で桑園畑を購入し、桑葉の利益でもって就産の目的を立てることを決定しました。字旧館以外の各大字の士族達も、ほとんどが桑園の購入で就産の目的を立てようとしています。 館蔵加藤(雅)家文書181
亀山町大字市ヶ坂も、士族一同の協議により、桑苗の植付を将来の生活の手段とすることで目途を立てたいとし、分配された授産金資本をこのために用いると記しています。このように亀山の士族達が、“桑”に着目したのは、当時、この地域に製糸場が増え始め、養蚕が盛んになりつつあったためと考えられます。 |
年月日 | 旧士族 所在地 |
授産積立金処置 | 授産積立金使途 | 以後の授産目的 |
明治26年 9月21日 |
亀山町 大字東町 大字西町 大字野村 |
銀行株券17枚売却 | 売却代金で桑園1反歩を買う | 年々桑葉の収利を得る |
明治27年 4月14日 |
亀山町 大字北山 |
銀行株券20枚売却 | 売却代金で桑園5反歩を買う | 年々桑葉の収利を得る |
明治26年 12月20日 |
亀山町 大字南野村 |
授産金配当するも、到底授産良法も達す ることができない | 授産金を各戸に分割し、桑苗等購入する資本とする | 蚕業を盛大にする |
明治26年 8月 |
亀山町 大字北山 |
銀行株券1枚売却 | 売却代金で桑園6畝歩を買う | 年々桑葉の収利を得る |
明治26年 7月8日 |
銀行株券3枚売却 | 売却代金で桑園1反歩を買う | 年々桑葉の収利を得る | |
明治26年 7月30日 |
銀行株券1枚売却 | 売却代金で桑園1反歩を買う | 年々桑葉の収利を得る | |
明治26年 7月 |
銀行株券1枚売却 | 売却代金で桑園5畝歩を買う | 年々桑葉の収利を得る | |
明治26年 8月 |
銀行株券2枚売却 | 売却代金で桑園畑1反歩を買う | 年々桑葉の収利を得る | |
明治26年 9月26日 |
銀行株券2枚売却 | 売却代金で桑園3畝歩を買う | 年々桑葉の収利を得る | |
明治27年 2月3日 |
亀山銀行株券1枚売却 | 売却代金で桑畑5畝歩を買う | 年々桑葉の収利を得る | |
明治26年 2月10日 |
亀山町 大字旧館 |
銀行株券2枚売却 | 売却代金で桑園畑1反歩を買う | 年々桑葉の収利を得る |
明治26年 8月20日 |
亀山町 大字南崎 |
亀山銀行株券6枚売却 | 綿布製造事業に着手する | 授産の資金に充てる |
明治26年 2月 |
亀山町 大字東丸 |
銀行株券2枚売却 | 売却代金で桑園畑1反歩を買う | 年々桑葉の収利を得る |
明治26年 9月10日 |
亀山町 大字市ヶ坂 |
旧藩主石川正五位公よりもらった授産金を資本に用いる | 桑苗植え付け | 将来活計の目途にする |
明治27年 3月30日 |
亀山町 大字東台 |
株券一旦売却 | 興業の基本に充てる | 一層増利の方法を設ける |
明治26年 2月10日 |
亀山町 大字若山 |
亀山銀行株金2株売却 | 売却代金の貸付による利益殖産を図る | 不時の離災者を救助する |
亀山町大字北山の士族戸別91戸へ分配された授産金(就産積立金)は、金高329円51銭1厘でした。字北山では、このうち325円分を株券13枚に替え、この株券は当分の間売却しないことなど株券の維持方法も決めています。 3-20:授産金各大字へ分配につき大字北山戸別91戸に対する金高 明治26年(1893)頃 橋本家所蔵史料7-21
亀山町大字若山では、亀山士族授産積立金として分配された亀山銀行株金2株について、売却の上、相当の貸付利益殖産を図り、不時の罹災者を救助すべき見込みを立てたことが、この誓約証書からうかがうことができます。 3-21:誓約文 明治26年(1893) 館蔵加藤(雅)家文書187
亀山町大字南崎では、一同協議の上、授産積立金として分配された亀山銀行株券を売り渡し、その資金で綿布製造事業に着手することで就産の目的を立てようとしました。 3-22:証 明治26年(1893)
館蔵加藤(雅)家文書182
士族授産金の亀山町大字ごとへの配当について、亀山町大字南野村では、士族で協議の上、配当金を桑苗等の購入資本とする決定をしたことを、元授産金管理者の加藤秀発へ報告しています。 3-23:報告 明治26年(1893) 館蔵加藤(雅)家文書135
亀山町大字東台では、配当の士族授産金について、現今のまま据え置いては利殖僅少にて起業の運びにはならないので、配当の株券を一旦売り払い、早々に興業の基本にあてたいと記しています。 3-24:授産積立金取り扱いにつき 明治27年(1894) 館蔵加藤(雅)家文書185
子爵石川成徳は、一連の授産金積立事業について、授産金積立委員諸氏の尽力を讃える手紙を送っています。 3-25:授産金積立委員に対する謝辞
明治26年(1893) 館蔵加藤(雅)家文書112 |
③地方官吏として就職した人も。 士族達の新しい就職先として多かった職種の一つに地方官吏があります。亀山の士族達の中にも地方官吏になった人は多く、例えば、岩倉使節団に随行した近藤幸止は、三重県の官員や、新潟県の大書記官になっています。同じように三重県官員となった亀山の士族に、田辺訥夫や堀池鴎舟がいます。 ここでは、このように地方官吏となった人を紹介します。 |
封紙には「亀山県印鑑」とありますが、押印されている印記は「亀山藩」です。その下に「亀山県 天野大属」と書かれています。このことから、亀山藩から亀山県への官員移行に伴う辞令が亀山藩から出されたと考えられ、天野が、亀山県で大属という職に就いたことがわかります。
ここには、鈴鹿郡役所の官吏一覧が記されています。亀山士族とわかる人の名前に、斎木良蔵、柏木雄、岩城確、天野遠正、天野遠謨、堀池保水、菊田忠宣、荒木一数があります。 3-27:玉石私記 明治12年(1879)
館蔵天野家文書38-17 |
④士族たちの起業。-士族の商法- 明治になって無職になった士族達は、生計を立てる道を模索し、農業や商売を始める者も出ました。しかし、慣れない商売で失敗する士族は多く、「士族の商法」と揶揄されました。 では、亀山ではどうだったのでしょうか。亀山の士族達も失敗したのでしょうか。 ここでは、亀山での士族の商法として、牧牛場事業や銀行経営、味噌製造販売業などを紹介します。 |
④-1 牧牛場事業-千百社- 士族授産事業の一つとして、千百社という牧牛場をつくる計画があったようです。伊勢新聞によると、明治11年(1878)5月頃に、広瀬野を開墾し牧牛場をつくるための出願手続きが行われました。しかし、広瀬野の土地はふさわしくないとわかり、直ぐに計画変更をし、翌12年(1879)、原村と伊船村の土地を開墾することになりました。発起人総代は、高月佐久助(安濃郡)・天野遠正(鈴鹿郡亀山)・天野遠謨(同)・藤田伝八郎(同郡上田村)・佐藤邦光(同郡原村)・真弓藤太(同郡伊船村)でした。この発起人総代の所在地と名前から、亀山の士族だけでなく、地元有力者などと協同で立ち上げた事業であったことがわかります。 |
これは、原村・伊船村の野地を開墾して牧場(千百社)を開設する計画で、発起人の中に亀山士族の天野遠正と天野遠謨の名前があります。 3-28:牧牛場開設ニ付地所拝借之儀再願 明治12年(1879)頃
館蔵天野家文書31-3-1
牧牛場「千百社」も社中仮規則(6条)です。和牛ではなく、洋牛を購入し育てるつもりであることがわかります。 3-29:千百社々中仮規則 明治12年(1879)頃
館蔵天野家文書31-3-2
この史料は、牧牛場(千百社)の開設に着手するにあたって作成された、今からやるべきことを順番に書き上げたリストです。 3-30:牧牛場着手順序概目 明治11年(1878)頃
館蔵天野家文書31-3-3
この史料は、千百社開設のために作成された仮規則の下書きです。18条からなり、末尾に亀山士族の堀池鴎舟が誌した、「牧牛社規則附言」があります。 3-31:牧牛社仮規則 明治11年(1878)
館蔵天野家文書31-4 |
④-2 銀行経営 士族達の中には、銀行経営に携わる者も少なくありませんでした。亀山では、民間銀行として、明治11年(1878)に「本立社」が、加藤秀発・加藤伴彦・小寺直衛・山田光次郎・佐藤左右・堀池鴎舟によって江ヶ室に設立されました。この銀行の社員は、旧亀山藩士族に限られ、資本金は、10,500円でした。そして、明治15年(1882)には、株式会社である戢光社が、士族の榊原一善が発起人となり設立されました。その他の民間銀行としては、明治19年(1886)に東町に設立した亀山銀行があります。初代頭取は、加藤秀発で取締役に加藤伴彦、支配人に佐藤佐吉が就任しました。 また、明治12年(1879)1月15日、いわゆる士族銀行とよばれる第百十五国立銀行が江ヶ室に開業しました。初代頭取は、堀池鴎舟で、多くの亀山士族達が発起人に名前を連ねました。2年後には京都に支店(西京支店)もできましたが、明治19年(1886)には買収され、滋賀県大津市へ移転しています。 |
亀山銀行が描かれた団扇です。亀山銀行は、東町に、亀山士族によって設立された民間経営の銀行です。頭取に加藤秀発、取締役に香取襲・林鎮馬、監査役に伊東与七・柏木雄・徳田柳太郎・岩城確・加毛春叢・榊原一善・伊藤光方・細木正方・加藤五百記・中田謙蔵がいました。
明治12年3月28日の欄に書かれた、銀行に関する内容には、銀行取締役の半田忠誨が辞任したため加藤秀発が選ばれたことが書かれています。銀行名は書かれていませんが、おそらく亀山銀行のことではないでしょうか。 3-33:日々記 明治12年(1879)
館蔵榊原家文書2-5-50 |
④-2 銀行経営 ここで紹介する史料は、亀山士族の小寺家がおこなった味噌製造販売にまつわる史料です。④-1や④-2で紹介したような、士族同士で起業した会社でなく、個人で商売をおこなっています。 実は、亀山の士族による商店経営に関する史料は今まであまり見つかっておらず、実態がつかめていません。ここで紹介する史料は、亀山の士族が商売を立ち上げたことがわかる数少ない史料です。 |
明治24年(1891)3月に、亀山士族の小寺が、亀山で「昨日屋」という味噌の製造販売店を開店しました。商品名は、昨日製造して今日食べられることから、「きのふみそ」です。 なお、この広告を印刷した市ヶ坂の「近藤活版所」も士族経営の印刷所であることがわかっています。 |
コラム 製糸工場を起業する。 亀山の士族達の中には、製糸場を設立した人もいました。亀山では、明治20年(1887)に西町田中音吉が田中製絲場を立ち上げたことにより、製糸と養蚕ブームが到来しました。士族では、菊田忠次が、明治24年(1891)8月に北山で菊田製糸場の操業を開始し、明治29年(1896)6月には、大辻藤七が若山で大辻製糸場の操業を開始しています。 |
|