2.新政府による新しい制度
明治時代になって、新しい制度が施行されました。このことによって、亀山の武士達にどのような変化があったのでしょうか。特に仕える主がいなくなった時に、それまで武士達に支払われていた家禄や扶持などの俸禄(給与)はどうなったのでしょうか。ここでは、その後の亀山の武士達について、新制度をふまえながら紹介します。 |
①お殿様が知藩事になった。-版籍奉還- 明治2年(1869)6月17日の版籍奉還(土地と人民を天皇に返すこと)によって、それまでの大名諸侯は、明治政府から新たに「知藩事※」という地方長官に任命されました。亀山領主であった大名石川成之も、同年2月に土地と人民を返上し、6月に亀山藩知事の宣下を受けています。 ※知藩事は、藩名を付けた時「○○藩知事」といいます。 |
この日記によれば、亀山藩主石川成之は、明治2年(1869)2月に京都で版籍奉還を願い出ました。亀山にいた天野錦洞が主君の版籍奉還を知ったのは、3月3日の夜に京都にいる天野儀太夫からの書状でした。 2-1:明治二巳正月起毫 巳歳日志 錦洞書房 明治2年(1869) 館蔵天野家文書36-13
亀山藩主であった石川成之は、版籍奉還を願い出た4ヶ月後の6月19日に亀山藩知事に任官されています。 2-2:石川日向守成之本藩知事宣下 明治2年(1869) 国立公文書館所蔵 公副179
この史料は2-1の天野錦洞が書いた明治2年(1869)の日記の一部です。この記事によれば、東京にいた石川成之は、6月17日の夜に政府から届いた奉書で、翌日巳の刻(10時頃)に正装である直垂着用での参朝を命じられました。翌日5つ時(8時頃)に参内したところ、政府より亀山藩知事に任じられました。 なお、亀山にいた天野錦洞がこのことを知ったのは、足軽飛脚で6月27日に届けられた、東京の天野義太夫から書状によるもので、10日も後のことでした。
この別紙の内容は、版籍奉還を願い出た面々へ出された明治2年(1869)6月17日の太政官布告第543号の一文です。 また、後ろには、明治2年10月16日の禄制改革によって、天野家のそれまでの家禄150石が、米63俵(1年間分)の支給に変わったことが書かれています。 |
②武士達は華族・士族・卒となる 明治2年(1869)6月17日の版籍奉還と共に、公家や大名諸侯の身分呼称が「華族」に改められました。亀山領主であった大名石川成之も華族となります。 また、武士身分(士分ともいう)の者は、同月25日に「士族」と改められ、足軽や中間などは、翌3年9月に「卒」と改められました。しかし、士族か卒かの振り分けの基準は藩によって違っており、明治政府によって統一された基準はありませんでした。 |
③藩がなくなった。-廃藩置県- 版籍奉還により、武士の主従関係は制度上では消滅しましたが、依然として江戸時代の旧領主が知藩事として地方のトップに存在していました。このため、中央集権化をめざす明治政府は、明治4年(1871)7月14日、藩を無くし、新しく府・県を置く廃藩置県をおこないました。これにより、亀山藩は亀山県となり、知藩事であった石川成之は、知藩事の任を解かれ、東京への居住を義務づけられました。 さらに、この亀山県は、僅か4ヶ月で廃止され、11月22日に安濃津県となりました。 このように行われた廃藩置県ですが、亀山の士族達は、この出来事をどのようにみていたのでしょうか。ここでは、その心情の一端が窺える榊原一善の覚書を紹介します。 |
この資料は亀山藩主石川家の家臣であった榊原一善が書いた覚書です。一善は、この覚書の中で、廃藩置県について人々が非常に歎いていることや、当時の明治政府の改革について、「この頃の形成、実に憤慨の至り」と自身の心情を記しています。 2-9:文久三年ゟ明治九年ニ至ル迄 覚書甲 第壱号 一善持 文久3年(1863)~明治9年(1876) 館蔵榊原家文書1-0-26
この写真は、明治8年(1875)6月11日午前8時に、元亀山藩主石川家の家臣で士族の榊原一善を写したものです。 ここに写る一善は、服装こそ和服ですが、加藤采女(光大)の肖像画と比べると、武士の象徴であった髷や刀は無く、代わりに手には帽子と洋傘を持っています。 服装や髪型については、明治4年(1871)に男性に対し布告された散髪脱刀令(断髪令)により、散髪・服装・帯刀は自由にしてよくなりました。この散髪脱刀令について、一善は2-9の覚書に「可歎之至(ほんとうに嘆かわしい)」と心の内を吐露しています。 |
④給与の廃止?-秩禄処分- 江戸時代の亀山藩の武士達は、藩から家格などに応じて俸禄(給与)を貰って生活していました。しかし、版籍奉還によって主従関係が絶たれ、俸禄が貰えなくなりました。その代わりとして、明治政府から華族・士族などへ家禄・賞典禄(維新功労者への禄)が支給されました。これを秩禄といいます。現在でいう年金のようなものです。しかし、この秩禄は財源の少ない明治政府の負担となったため、明治9年(1876)8月5日の太政官布告によって秩禄の支給を止め、金禄公債証書の交付に換えました。これを秩禄処分といいます。 ここでは、秩禄に関わる史料から、亀山での士族達の動向をみていきます。 |
④-1 士族の給料はいくら? 明治政府から士族に支払われた秩禄(給与)は、最初は、江戸時代の頃のように、米による現物支給でした。その支給高は、財政困難などの事情により、各藩では明治2年(1869)頃に禄制改革が行われ、江戸時代の頃の家禄より削減されています。亀山藩では、明治2年の禄制改革後、さらに改正され、支給高の上限が20石となりました。元家禄170石~600石の士族がこれに該当しています。そして、明治6年(1873)に地租改正が行われると、地租の納税方法が米から貨幣に代わったことにより、士族への秩禄もだんだんと貨幣で支払われるようになりました。その後明治7年(1874)には、明治政府が陸海軍費のためという理由で、所得税である家禄税を賦課したため、実質の支給額はさらに減額となりました。 ここでは、明治5年(1872)頃の亀山の士族達に実際に支払われた秩禄の支給額について紹介します。 |
この地域は、明治5年(1872)3月17日に、安濃津県から三重県になります。この調帳は、この頃の亀山の士族達の秩禄の支給額を調べたもので、三重県への提出書類の控えと考えられます。 内容は、475人の士族1人ごとに元現米高・家禄金額・家禄税額・支給額を記したもので、最も多い人で89円72銭が支給されていました。 そして、元現米1石に対する円への換算率は、元現米高が高い人ほど高くなっています。しかし、元現米高が5石より低い人は、制度上、家禄税がかかりませんので、支給額で計算すると元現米20石の人よりも高い換算率になります。 なお、明治8年(1875)当時の1円は現在の2万円くらいと言われていますので、これを基準に現在の金額に換算すると、最も支払い額が高い人で、手取り約179万円/年となります。
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④-2 家禄奉還制度 明治6年(1873)12月27日、明治政府は、「家禄奉還ノ者ヘ資金被下方規則」(家禄奉還制度)を布告しました。これは、士族達に起業資金を与える名目で行われ、秩禄受給者のうち高100石未満の者に家禄奉還を促し、奉還希望者には家禄6年分(一代限りの終身禄は4年分)を、半分は現金、半分は年8分の利付き秩禄公債を交付しました。この制度は、政府の家禄負担を解消しようとした政策の1つです。つまり、家禄奉還の希望者に対する、年金の打ち切りのようなものでした。 亀山でどれだけの士族が奉還したかは分かりませんが、全国では3分の1の士族が奉還を希望したと言われています。 |
榊原一善は、明治8年(1875)1月17日に、家族一統と相談の上、家禄15石の内、7石を奉還しています。これにより、同年6月16日にこの7石分の代金151円57銭6厘を受け取っています。この時一善は「難有請納候也」と謝意を記しています。 2-12:文久三年ゟ明治九年ニ至ル迄 覚書甲 第壱号 一善持 文久3年(1863)~明治9年(1876) 館蔵榊原家文書1-0-26
これは、榊原一善の家禄奉還願です。授産の目途を立てるため、家禄15石の内、7石の奉還を願い出ています。なお、産業・農事を営みたいと奉還の目的を記しています。 2-13:家禄奉還御願 明治8年(1875) 館蔵榊原家文書1-0-93
これは、天野遠正の家禄奉還願です。家禄18石の内9石の奉還を願い出ています。なお、文面は、榊原一善の家禄奉還願と同じです。 2-14:家禄奉還御願 明治8年(1875) 館蔵天野家文書20-11-1
これは、加藤五百記の家禄奉還願です。家禄11石の内、5石の奉還を願い出ています。なお、文面は、榊原一善や天野遠正の家禄奉還願と同じです。 2-15:家禄奉還御願 明治8年(1875)
館蔵加藤(五)家文書 旧2-4-8 |
④-3 秩禄公債証書の売買 明治政府は、明治6年(1873)の「家禄奉還制度」により、秩禄公債を発行することとし、翌7年(1874)制定の「家禄引替公債証書発行条例」の規程により、額面300円・100円・50円・25円の秩禄公債証書を発行しました。 この秩禄公債証書は、日本人どうしであれば売買可能であったため、現金に困った士族などは、売り払うことで手っ取り早く現金を得ることができました。実際に亀山でも、秩禄公債証書の売買が行われたことがわかる史料がのこされています。 |
これは、明治8年(1875)12月12日に、今井幸次郎が200円分の秩禄公債証書を、額面より少ない160円で林鎮馬へ譲渡した事に対する林鎮馬の受領書です。秩禄公債証書を譲渡すことになった理由は記されていませんが、士族同士で売買をしています。 2-16:金200円の秩禄公債証書を金160円で譲渡につき請取記 明治8年(1875) 館蔵今井家文書
秩禄公債証書の償還者は、毎年抽選で選ばれました。償還は、秩禄公債証書と引き換えに元金と利子を渡されました。そして、この秩禄公債は、明治9年(1876)の秩禄処分により、金禄公債へ切り替えられました。 この史料は、実際に秩禄公債に当選した加藤五百記と林鎮馬が、元金と利子の請求のために作成したものです。 |
④-4 金禄公債証書の発行 明治9年(1876)8月5日、明治政府は、財政を圧迫していた華・士族への秩禄の支給を廃止するために、「金禄公債証書発行条例」を制定しました。この条例により秩禄の支給が廃止され、代わりに金禄公債が交付されました。金禄公債証書の額面は、5000円・1000円・500円・300円・100円・50円・25円・10円があり、この公債の償還は、明治15年(1882)から開始されました。 この亀山の士族の金禄公債に関する史料は、残念ながらほとんど残っていません。 |
これは、明治11年(1878)5月に、亀山の士族達に支払われた金禄公債の利子です。元家禄(石高)を基準に利子が支払われています。 2-18:明治十一年金禄公債利子 五月渡之分 明治11年(1878) 館蔵加藤(五)家文書 旧2-3-13
明治9年(1876)の金禄公債証書の交付により、明治政府は一応の秩禄処分を完了しましが、この秩禄処分に不満をもつ者も多く、処分後も卒から平民へ編入となった者など不満を持つ士族達から復禄請願が提出されました。このため、明治30年(1897)に制定されたのが「家禄賞典禄処分法」です。この法律により政府は禄高是正の審理に応じることになりました。 この史料は、家禄賞典禄処分法を写したものです。 |