戦後、戦争からの復興にあわせ、全国で開発が進みました。亀山市も例外ではありません。そうした中で、数々の遺跡や古墳が破壊されていきました。まさにこうした時期に、郷土史クラブは創設されました。彼らは、学区内を自らの足で歩き、目で見る中で、危機に瀕する遺跡等を記録するため、発掘調査を実施しました。ちょうどその時期、昭和25年(1950)に文化財保護法が制定されました。その結果、学生たちによる届け出のない発掘は、法令違反となりました。
もちろん、無届け発掘は遺跡の破壊につながるものです。とはいえ、行政が発掘調査を担える人材を確保するのはまだまだ先のことでした。その間のクラブ員たちの活躍はめざましいものでした。彼らの地域に対する興味関心と愛着は、地域史をどんどん明らかにしていきました。そして、法令を遵守する姿勢が整うとともに、三重県や亀山市と連携して協力者という立場を守りつつも、その中心的な役割を果たし続けてきたのです。
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92.須恵器坏身
阿野田古墳群 古墳時代後期(6世紀後半) 佐々木宣明氏
阿野田古墳群は、郷土史家の大西源一氏らが阿野田付近を調査中に発見したといいます(『鈴鹿』第2号)。大西氏は、『鈴鹿』にも寄稿するなど、クラブとの関係ももっていました。昭和25年(1950)には、クラブ活動に協力していました。これらの須恵器は、発掘調査時とは別に阿野田古墳群で見つかったものです。
また、発掘調査の後も、昭和28年7月初旬、昭和30年7月21日に行われた現地見学会の巡見場所となっており、クラブ員たちはその変化を観察しつづけました。
なお、現在は東阿野田1〜8号墳として認識しています。
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須恵器坏身
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93.『伊勢新聞』昭和25年(1950)10月3日2面記事
亀山市歴史博物館
郷土史クラブは、昭和25年(1950)9月中旬より阿野田古墳群の1基の発掘調査を始めました。クラブ創設2年目にして、初の発掘調査となりました。発掘調査のようすが新聞報道されると、三重県教育委員会へ届け出がなかったことが問題となりました。
発掘の直前、昭和25年8月29日に施行された文化財保護法により、発掘調査にあたっては、文部省外局の文化財保護委員会へ届け出ることとされていました。これに抵触したため、三重県教育委員会より、発掘調査の即時中止を求められたといいます。その後、クラブ員が県教育長に直訴し、何とか発掘継続をすることができたそうです。
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『伊勢新聞』昭和25年(1950)10月3日2面記事
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文化財保護法における埋蔵文化財の取り扱い
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