(1)亀山高校古墳調査団
郷土史クラブは、学区内の他の古墳でも発掘調査にたずさわりました。特に、昭和31年(1956)には、郷土史クラブと地学クラブによって「亀山高校古墳調査団」が編成され、亀山高校が主体となって八野古墳群(鈴鹿市八野町)の発掘調査を行うという成果を残しています。
また、昭和47年(1972)には、大きく報道された井田川茶臼山古墳の発掘に関連し、城山古墳が見つかりました。地域の関心も高く、城山古墳の発掘には亀山中学校の生徒も参加しました。
61.埴輪片
井尻古墳 古墳時代後期(6世紀前半) 亀山市(まちなみ文化財G所管)
井尻古墳(井尻町,前方後円墳)は、クラブが発見し命名した古墳です。『すゞか』創刊号〈出品番号3〉に、昭和24年(1949)7月23日の踏査にて発見したとその経緯が記録されています。
この埴輪片は、平成10年(1998)に亀山市が農道敷設に際し実施した試掘調査で見つかったものです。
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埴輪片(井尻古墳)
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井尻古墳空中写真
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井尻古墳発見記事
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62.円筒埴輪
山下古墳 古墳時代後期(6世紀初め) 亀山市歴史博物館(亀山高校資料)
クラブ顧問の生駒勝先生の現地採訪やクラブ員たちの現地見学の際、山下古墳(山下町,前方後円墳)から埴輪片を採集しています。昭和29年(1954)8月6日の現地見学で、後円部で円筒埴輪片と形象埴輪片を表採しています(『鈴鹿』第5号)。その破片から学生たちが復元し、その後、亀山市が補強したものです。
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63〜68.徳原古墳群出土遺物
古墳時代後期(6世紀前半) 亀山市(まちなみ文化財G所管)
徳原古墳群(川崎町)は、現在29基が確認されています。うち5基(14・17・18・19・22号墳)が、大規模開発にともなう工事のため消滅するとの理由により、昭和42年(1967)12月8日から25日に発掘調査されました。調査にはクラブ員も参加し、遺物整理はクラブ員が行いました。
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63.須恵器高坏(徳原古墳群 14号墳)
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64.直刀(徳原古墳群 14号墳)
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65・66.須恵器坏蓋・坏身(徳原古墳群 18号墳)
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67.土師器碗(徳原古墳群 22号墳)
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68.土師器壺(徳原古墳群 22号墳)
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69.埋蔵文化財保管証(案)
昭和43年(1968)3月12日 亀山市歴史博物館(生駒家資料)
徳原古墳群の発掘調査は、郷土史クラブ卒業生で、大学で考古学を専攻した佐々木宣明氏(初代研究会会長)、クラブ顧問の生駒勝先生が担当し、三重県教育委員会指導のもと、南山大学、三重大学の協力を得て行われました。遺物整理と調査研究のため、資料を保管する旨を県教育委員会へ届け出ています。
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埋蔵文化財保管証(案)
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70.徳原古墳群遺物出土状況
亀山市(まちなみ文化財G所管)
昭和44年(1969)11月21日から23日に第20回亀山高校学園祭が行われました。郷土史クラブは、展示を行っており、そのテーマのひとつが「市内古墳出土品」でした(『鈴鹿』第33号)。その際に用いられたものかもしれません。14号墳の直刀〈出品番号64〉、18号墳の須恵器蓋坏〈出品番号65・66〉の出土状況がわかります。
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徳原古墳群遺物出土状況
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71.亀山高校新聞 第76号
亀山高校新聞部刊 昭和43年(1968) 三重県立亀山高等学校
昭和43年(1968)2月10日刊行の学校新聞で、クラブ活動の成果として、顧問の生駒勝先生が「徳原古墳発掘」と題した報告をしています。写真から、クラブ員が発掘調査や遺構の測量を行ったこともわかります。
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亀山高校新聞 第76号 亀山高校新聞部刊
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72・73.瓦
長者屋敷遺跡 奈良時代(8世紀中頃) 亀山市歴史博物館(亀山高校資料)
昭和31年(1956)、日本を代表する歴史地理学者である藤岡謙次郎先生(京都大学)が取り組んだ「国府の地理学的研究」の調査にあたり、亀山高校に協力を依頼します。そこで、高校の社会科は、郷土史クラブと共に藤岡先生の研究に協力することを決め基礎調査を実施しています〈出品番号80(亀山高校新聞第34号)〉。
なお、昭和30年当時に伊勢国府は、鈴鹿市国府町長の城にあると想定されていました。現在は、長者屋敷遺跡(亀山市能褒野町・鈴鹿市広瀬町)であると考えられており、この瓦は、長者屋敷遺跡で昭和39年に見つかったと記録されるものです。
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72.丸瓦
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73.平瓦
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74〜77.八野古墳群出土遺物
亀山市歴史博物館(亀山高校資料)
昭和31年(1956)に編成された亀山高校古墳調査団による調査の途次、八野古墳群8号墳(鈴鹿市八野町,円墳)に開墾の危機が迫っていることがわかりました。そこで、届出のうえ、昭和31年12月に、亀山高校の古墳調査団・教員・歴史講座受講生ら約200名により、発掘調査が実施されました。その結果は、『鈴鹿』第12号に調査概報として報告されました。
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74.須恵器広口壺(八野古墳群20号墳)
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75.土師器把手付椀(八野古墳群8号墳)
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76.石匙(鈴鹿市八野町)
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77.壺(八野古墳群8号墳)
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78.謄写版・亀山高校所蔵遺物図(鈴木敏雄氏作図)
皇學館大学研究開発推進センター史料編纂所
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78.謄写版・亀山高校所蔵遺物図(鈴木敏雄氏作図)
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79.拓本・八野古墳群出土壺片(鈴木敏雄氏採拓)
皇學館大学研究開発推進センター史料編纂所
土師器壺〈出品番号77〉の実測図と拓本です。作図・採拓者の鈴木敏雄氏は、教員として勤めながら、三重県全域を対象に調査を行い、特に考古学の分野で大きな功績を残しています。郷土史クラブは、鈴木氏などの郷土史の大家から教えを受けて成長しました。
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79.拓本・八野古墳群出土壺片(鈴木敏雄氏採拓)
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80.亀山高校新聞 第34号
亀山高校新聞部刊 昭和31年(1956) 三重県立亀山高等学校
開墾や土木工事による地域の埋蔵文化財を破壊から守るため、「郷土地域の古墳群の現状を可能な限り正確・綿密に記録しておく必要を痛感し」(『鈴鹿』第12号)、昭和31年(1956)に「亀山高校古墳調査団」が編成されました。団員は、郷土史クラブと地学クラブのクラブ員で約50名、顧問の佐野勤先生(地学クラブ)、生駒勝先生・筑紫申真先生(郷土史クラブ)でした。彼らは、鈴鹿川沿岸地域一帯の古墳群を総合的に調査し、その結果は、昭和32年3月24日の三重史学会例会や7月1日の社会科教育研究協議会において発表、そして『鈴鹿』第12号に誌上報告しました。
特に、郷土史クラブの活躍した、国府調査と八野古墳群発掘調査は、学校新聞でもとりあげられています。
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81.須恵器坏蓋(ガンサの谷遺跡)
古墳時代後期(6世紀前半) 亀山市歴史博物館(亀山高校資料)
ガンサの谷(安坂山町池山)は、鈴鹿山脈の嶺のひとつ、御所ヶ平に向かう途中の標高約600mの緩やかな斜面です。地元の方がこの須恵器を発見し、当時の亀山市に示されました。そこで、市観光課とともに、昭和33年(1958)2月4日に、クラブ顧問の筑紫申真先生と生駒勝先生が調査に入りました。市からも頼られるクラブであったことがわかります。
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81.須恵器坏蓋(ガンサの谷遺跡)
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82.亀山高等学校文化祭出品遺物記録(鈴木敏雄氏作図)
昭和33年(1958) 皇學館大学研究開発推進センター史料編纂所
昭和33年(1958)11月15日に亀山高校文化祭での郷土史クラブの展示を観覧した鈴木敏雄氏が記録した出品資料です。発見場所と遺物の略図が記されています。
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82.亀山高等学校文化祭出品遺物記録(鈴木敏雄氏作図)
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ガンサの谷位置図
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83.円筒埴輪
城山古墳 古墳時代後期(5世紀後半) 三重県埋蔵文化財センター
城山古墳(みどり町,前方後円墳)は、三重県住宅供給公社による住宅団地造成中に新しく見つかりました。緊急発掘調査が実施され、多数の円筒埴輪や形象埴輪、須恵器などが確認されました。昭和47年(1972)7月25日から28日まで、クラブ員有志が発掘作業に参加しています(『鈴鹿』第39号)。
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84.『伊勢新聞』昭和47年(1972)7月28日2面記事
亀山市歴史博物館
伊勢新聞の報道によると、昭和47年(1972)7月27日には、亀山中学校有志生徒が城山(しろやま)古墳の発掘調査に参加しています。その他、亀山高校郷土史クラブと神戸高校郷土史クラブも発掘調査を行う予定になっています。当時、隣接する井田川茶臼山古墳(みどり町,前方後円墳)の発掘調査が大きく報道されていたことから、中学生も参加したのではないかと推測されます。
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『伊勢新聞』昭和47年(1972)7月28日2面記事
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