5.公共施設にまつわる1番
みんなが通っている学校や図書館・公園・市役所、そしてこの博物館、市内にはいろんな公共施設があるよ。公共施設とは、みんなのために、国や県、市などによってつくられた建物や場所のことをいうんだ。
このコーナーで紹介するのは、このような公共施設のなかから、みんなが通っている学校と、むかしの役場(※)のなかからみつけた1番だよ。
※市は市役所、町や村は役場といいます。 |
(1)学校の1番 -二宮金次郎- |
亀山市では、ぜんぶの学校に建っていたわけではないけれど、むかし、二宮金次郎という江戸時代の人をモデルにした石像を学校に建てることがブームになったことがあったんだ。石像の二宮金次郎は、だいたい薪を背負って、歩きながら本を読んでいるポーズなんだ。これは、二宮金次郎が、薪拾いをしながらひっしに勉強をして、貧しい農民から徳川幕府の役人にまで出世した人だから、その姿を表現しているんだって。このような立派な二宮金次郎を、みんなも見ならいましょうということで、日本中のあちこちの学校で建てられたんだ。
市内には、3体の二宮金次郎像が確認できるよ。建っている場所は、市立図書館前・加太小学校・井田川駅前だよ。この3体、よく見ると顔つきも違うし、大きさも違う。背負っている薪も、束ね方とかもちがってるし。だから、二宮金次郎像3体の身体測定をしてみたんだ。この結果は、「市内の二宮金次郎さんを調べてみたら…」表をみてね。さあ、二宮金次郎像の1番はどれかな?
市内の二宮金次郎さんを調べてみたら…
順位 |
身長 |
足 |
薪の数 |
本の厚み |
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加太小 139㎝ |
加太小 26㎝ |
加太小 69本 |
加太小 3.3㎝ |
2番 |
図書館前 121㎝ |
図書館前 23.5㎝ |
井田川駅前 65㎝ |
井田川駅前 3㎝ |
3番 |
井田川駅前 110㎝ |
井田川駅前 16㎝ |
図書館前 36本 |
図書館前 2㎝ |
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[5-1] |
5-1:加太小学校の二宮金次郎像(にのみやきんじろうぞう) 所在地:加太小学校玄関脇
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[5-1]
加太小学校の二宮金次郎像は、今から81年前の1937年(昭和12)7月に、有志の人(志や関心をもっている人)からの寄付によって設置されました。
表を見てわかるように、市内にある3体の中で、体は最も大きく、薪も1番多く背負っています。結果的に、加太小学校の金次郎像は、文句なしの1番です。
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[5-2] |
5-2:亀山西小学校にあった二宮金次郎像(にのみやきんじろうぞう) 所在地:亀山市立図書館前
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[5-2]
現在亀山市立図書館前にある二宮金次郎像は、もともと1939年(昭和14)に佐藤半次郎という人によって、亀山尋常高等小学校の校庭に建てられました。亀山尋常高等小学校は、現在の亀山西小学校の場所にあった学校です。
では、なぜ市立図書館前にあるのかというと、今の場所に市立図書館ができるまで、図書館は、亀山西小学校の校内の正門近くにありました。金次郎像は、ちょうどこの図書館の玄関前の位置にあったので、今から38年前の1980年(昭和55)、旧図書館が取り壊される時に、今の場所に移転することになったのです。
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5-3:井田川小学校にあった二宮金次郎像(にみやきんじろうぞう) 所在地:井田川駅前
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[5-3]
現在、井田川駅前にある二宮金次郎像が建っている場所は、井田川小学校がみどり町に引っ越す前まであった場所です。井田川青年団中冨田支部より、83年前の1935年(昭和10)3月に寄贈されました。市内にある金次郎像の中では1番古い金次郎像です。小学校がみどり町に引っ越した時、金次郎像は置いていかれ、今の場所にのこったようです。
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二宮金次郎が、薪を背負うために使っている道具を「背負子」といいます。ランドセルのように背負って使い、重たいものでも楽に運ぶことができる道具です。展示室中央に、体験用の背負子を用意していますので、ぜひ背負って、二宮金次郎になりきってみてください。
二宮金次郎なりきりコーナー
二宮金次郎になりきって、石像と同じポーズをしてみよう。写真を撮って自由研究ノートに貼ってもオッケー。
背負う重さは、
背負子:1.5㎏ 薪:9.2㎏
あわせて、10.7㎏あるよ。
重たいので、お友達や大人の人と協力して体験してね。誰もいなかったら、受付まで言いに来てね。博物館の人が、お手伝いをします。
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5-5:石川近江守様御勝手向御取直シ趣法之儀二宮金次郎江御頼被仰入候ニ付御趣法之書付御役人迄差出ス写 (いしかわおうみのかみさまごかってむきおとりなおししゅほうのぎにのみやきんじろうへおたのみおおせいらせられそうろうにつきごしゅほうのかきつけおやくにんまでさしだすうつし) 1844年(天保14)7月 亀山市歴史博物館所蔵 天野家文書
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[5-5]
今から174年前の江戸時代、亀山城主石川家の親戚の石川近江守が、二宮金次郎へ自分の領地の財政の立て直しを頼んだ時に、二宮金次郎とのやりとりをまとめたもの。金次郎は、他の人では考えつかないような独自な方法で、お金貯めることに成功し、またその方法をみんなに教えたので、いろんな人から頼りにされました。
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小学校で食べる給食を、毎日楽しみにしてる小学生も多いのではないかな。給食は、最初から今のような給食だったわけではなく、はじめは脱脂粉乳だけを配る「ミルク給食」からスタートしたんだ。地域によっては、「味噌汁給食」ってのもあったみたいだけどね。
今のように、パンやおかずのついた「完全給食」といわれる給食は、市内の小学校では昭和30年代から始まったんだよ。そのトップバッターを切ったのが昼生小学校。1958年(昭和33)に、昼生小学校が亀山市で1番はじめに完全給食をスタートさせたんだ。ちょうど60年前のことだよ。
ただ、それぞれの学校で最初に出された給食については、まったく記録にのこっていないから、どんなメニューだったかわからないんだ。
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5-6:むかしの給食のようす 亀山市立亀山東小学校所蔵 卒業アルバムより
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亀山東小学校の1966年(昭和41)の卒業アルバムに掲載されたむかしの給食のようすを写したものです。むかしの給食では、アルマイトという金属製の食器が使われました。写真の給食では、お皿の上はパン、小食器にはミルク(脱脂粉乳)、大食器には、おかずが配られています。むかしの給食では、お米のご飯ではなくパンが一般的でした。
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市内の小学校の給食で実際に使われていた、アルマイト製の食器は、金属の食器なので、熱いおかずを入れた時、食器が熱くてなかなか持てませんでした。
また、スプーンはステンレス製ですが、先が割れていて、フォークとスプーンがひとつになったような形をしていて、「先割れスプーン」と呼ばれました。大きな安全ピンのような形のスプーン通しに、クラスの人数分を束ねて運ぶので、持ち手の先の部分には、丸い穴があいています。
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(2)学校の1番 -さいしょの校長先生- |
現在のわたしたちは、義務教育として、小学校に6年間、中学校に3年間通うけれど、むかしはちがったんだって。1947年度(昭和22年年度)に学校教育がいろいろと見直されて、今のように小学校6年間、中学校3年間通うようになったの。つまり、かんたんに言えば、いちどリセットされて、新しく再スタートしたってことなんだね。だから、今の小学校や中学校のスタートラインは、1947年(昭和22)の4月なんだ。ただし、これ以降に、児童数の増加によってわかれた小学校などもあるから、すべての学校のスタートが同じではないけどね。このことから、新しくなった市内の小中学校の1番はじめの校長先生を調べてみたの。もちろん、のちにわかれた小学校とかは、わかれた後のさいしょの校長先生を調べたよ。
さあ、どんな人かな。
現在の小学校・中学校の1番初めの校長先生はだれ?
学校名 |
現在の学校 の始まり |
創立記念日 |
初代学校長 |
就任期間 |
亀山西 小学校 |
1963年(昭和38) 4月1日 |
6月1日 |
山木邦成 |
1960年(昭和35)3月31日~ 1965年(昭和40)3月31日 |
亀山東 小学校 |
1963年(昭和38) 4月1日 |
4月10日 |
山本秀士 |
1963年(昭和38)4月1日~ 1966年(昭和41)3月31日 |
亀山南 小学校 |
1982年(昭和57) 4月1日 |
4月9日 |
岡本育夫 |
1982年(昭和57)4月1日~ 1984年(昭和59)3月31日 |
昼生 小学校 |
1947年(昭和22) 4月15日 |
4月15日 |
川村渡 |
1946年(昭和21)3月31日~ 1947年(昭和22)5月1日 |
井田川 小学校 |
1979年(昭和54) 4月1日 |
6月1日 |
松尾弘 |
1978(昭和53)4月11日~ 1982(昭和57)3月31日 |
川崎 小学校 |
1947年(昭和22) 4月1日 |
11月22日 |
深津俊吾 |
1946年(昭和21)3月31日~ 1949(昭和24)2月7日 |
野登 小学校 |
1947年(昭和22) 4月1日 |
10月1日 |
佐野俊三 |
1946年(昭和21)3月31日~ 1948年(昭和23)7月31日 |
白川 小学校 |
1947年(昭和22) 4月1日 |
5月15日 |
森愛三 |
1945年(昭和20)11月6日~ 1948年(昭和23)3月31日 |
神辺 小学校 |
1947年(昭和22) 4月1日 |
6月1日 |
伊藤正也 |
1946年(昭和21)3月31日~ 1947年(昭和22)4月30日 |
関 小学校 |
1947年(昭和22) 4月 |
11月6日 |
中根敬一 |
11947年(昭和22)4月1日~ 1957年(昭和32)3月31日 |
加太 小学校 |
1947年(昭和22) 4月1日 |
12月12日 |
田中泰助 |
1943年(昭和18)3月31日~ 1948年(昭和23)3月30日 |
亀山 中学校 |
1947年(昭和22) 4月15日 |
5月30日 |
近藤吉郎 |
1947年(昭和22)4月15日~ 1948年(昭和23)7月15日 |
中部 中学校 |
1956年(昭和31) 4月 |
不明 12月1日か |
市川光太郎 |
1954年(昭和29)3月31日~ 1960年(昭和35)9月30日 |
関 中学校 |
1961年(昭和36) 3月31日 |
7月15日 |
中根敬一 |
1957年(昭和32)4月1日~ 1963年(昭和38)3月31日 |
※就任期間は、新しい制度になる1947年以前から、その学校で 就任している場合は、そのまま記した。 |
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(3)むかしの役場から1番 -さいしょの町長・村長- |
1888年(明治21)に「市制・町村制」という制度が発表され、翌1889年(明治22)から、現在の亀山市のような、地方公共団体としての市や町や村ができたんだ。この地域には12の町や村ができたんだって。じゃあ、新しくできた町や村のトップはだれがなったの?。くわしくは「1番はじめの町長・村長」表をみてね。
1番はじめの町長・村長
町村名 |
現在の町名 |
町長・村長 |
在任期間 |
亀山町 |
アイリス町・市ヶ坂・江ヶ室・海本町の一部・亀田町・北野町・北町・北山町・渋倉町・菅内町・住山町・高塚町の一部・椿世町・中屋敷町・西町・西丸町・野村・野村町・羽若町・東台町・東町・東丸町・東御幸町・本町・本丸町・南崎町・南野町・御幸町・若山町・和賀町の一部 |
飯田 宗純 |
1889年(明治22)~ 1893年(明治26)2月 |
関町 |
関ヶ丘・関町泉ヶ丘・関町久我・関町木崎・関町新所・関町中町・関町富士ハイツ・関町古厩 |
橘 敏三 |
1889年(明治22)~ 1906年(明治39)8月24日 |
槙尾村 |
安知本町・阿野田町・海本町の一部・北鹿島町・田茂町・天神・南鹿島町・和賀町の一部 |
保田 駒太 |
1889年(明治22)~? |
昼生村 |
下庄町・中庄町・三寺町 |
国分 喜一郎 |
1889年(明治22)~ 1894年(明治27)2月 |
井田川村 |
井尻町・井田川町・川合町・上野町・小下町・栄町・高塚町の一部・みずきが丘の一部・みずほ台の一部・みどり町の一部・和田町 |
藤田 権四郎 |
1889年(明治22)~ 1893年(明治26)5月 |
川崎村 |
川崎町・田村町・長明寺町・能褒野町の一部・太森町・みずきが丘の一部・みずほ台の一部・みどり町の一部 |
小林 正一郎 |
1889年(明治22)~ 1893年(明治26)5月 |
野登村 |
安坂山町・能褒野町の一部・両尾町・辺法寺町 |
小林 国松 |
1889年(明治22)~ 1893年(明治26)5月 |
白川村 |
小川町・白木町・関町白木一色・関町鷲山 |
吉田 忠宣 |
1889年(明治22)6月~ 1895年(明治28)11月 |
神辺村 |
小野町・木下町・関町会下・関町小野・太岡寺町・布気町・山下町 |
草川 武八郎 |
1889年(明治22)6月~ 1891年(明治24)7月 |
坂下村 |
関町市瀬・関町沓掛・関町坂下 |
前田 平十郎 |
1889年(明治22)6月~ 1894年(明治27)3月 |
加太村 |
加太板屋・加太市場・加太梶ヶ坂・加太北在家・加太神武・加太中在家・加太向井・関町越川・関町金場 |
森 親之助 |
1889年(明治22)6月~ 1893年(明治26)6月 |
明村 |
楠平尾・関町萩原・関町福徳 |
落合 石之助 |
1889年(明治22)6月~ 1894年(明治27)8月 |
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[5-8] |
[5-8]
『亀山町制実施五十周年記念アルバム』に掲載されていた、初代亀山町長をつとめた飯田宗純の顔写真です。
5-8:初代亀山町長飯田宗純(いいだそうじゅん) 亀山市歴史博物館所蔵
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