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4.亀山城かめやまじょうにまつわる1番いちばん

 亀山市には、現在げんざいでも亀山じょう一部いちぶであった多門櫓たもんやぐらがのこされていているんだ。この多門櫓たもんやぐらは、亀山じょう本丸ほんまる東南隅櫓とうなんすみやぐらとして、三重県みえけん文化財ぶんかざい指定していされているんだ。ほかの亀山じょう建物たてものはのこっていないけれど、かわりに、むかしの人が書いた図面ずめん記録きろく、古い写真しゃしんなんかはのこされているんだ。このコーナーでは、これらの手がかりから、亀山じょうにまつわる1番を紹介しょうかいするよ。


(1)1番さいしょの亀山城主かめやまじょうしゅ -岡本宗憲おかもとそうけん

江戸時代えどじだい武士ぶしがまとめた記述きじゅつによれば、1584年(天正てんしょう12)に、岡本宗憲おかもとそうけんという人が、豊臣秀吉とよとみひでよしより亀山じょうをもらったんだって。そして1589年(天正てんしょう17)ごろに、亀山じょう本丸ほんまる二之丸にのまる三之丸さんのまる天守てんしゅ工事こうじをして、大手門おおてもん青木門あおきもん黒門くろもんなどもてたんだって。そして10年間んだんだって。つまり、岡本宗憲おかもとそうけんは、江戸時代えどじだいの亀山じょうのもとになる亀山じょうてた人であり、1番さいしょの城主じょうしゅなんだ。
 そして、この岡本宗憲おかもとそうけんは、豊臣秀吉とよとみひでよしが1594年(文禄ぶんろく3)7月におこなった太閤検地たいこうけんちの後、このあたりの土地とちをもらってるんだよ。


[4-1]
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岡本宗憲おかもとそうけんが、豊臣秀吉とよとみひでよしから亀山じょうあたえられたことや、1589年(天正てんしょう17)に亀山じょう工事こうじをおこなったことなど、亀山じょう履歴りれきしるされています。
4-1:亀山城来歴(かめやまじょうらいれき)
個人寄託

[4-2]
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 この本にも、岡本宗憲おかもとそうけんが、亀山じょう工事こうじをおこなったことがしるされていますが、「亀山城来歴かめやまじょうらいれき」にしるされた亀山じょう工事こうじは、1589年(天正てんしょう17)なのにたいし、この本では1590年(天正てんしょう18)としるしています。
4-2:九々五集(くくごしゅう) 巻第一 城地・年譜部(半田写本)
亀山市歴史博物館所蔵

[4-3]
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岡本宗憲おかもとそうけんが、1594年(文禄ぶんろく3)に豊臣秀吉とよとみひでよしより領地りょうちあたえられたときにもらった目録もくろく野尻村のじりむら椿世村つばいそむらなどこのあたりの24かそんをもらっています。
4-3:伊勢国鈴鹿郡内知行方目録帳
(いせのくにすずかぐんないちぎょうかたもくろくちょう)
1594年(文禄3)9月21日
亀山市歴史博物館所蔵岡本家文書

[4-4]
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 1594年(文禄ぶんろく3)につづき、よく1595年(文禄ぶんろく4)にも岡本宗憲おかもとそうけんが、豊臣秀吉とよとみひでよしより領地りょうちあたえられています。このときは15かそん加増かぞうでした。
4-4:伊勢国鈴鹿郡岡本下野知行出米目録
(いせのくにすずかぐんおかもとしもつけちぎょうでまいもくろく)
1595年(文禄4)正月20日
亀山市歴史博物館所蔵岡本家文書


(2)亀山城かめやまじょうの中で1番高い建物たてもの -三重櫓さんじゅうやぐら

 亀山じょうの中で1番高い建物たてものは、本丸ほんまるにあった三重櫓さんじゅうやぐらなんだよ。この三重櫓さんじゅうやぐらについて、むかしの人が書いた絵図の中に、三重櫓さんじゅうやぐらっている場所ばしょを「天守てんしゅ」って書いたものがあるんだ。じつは、亀山じょうは、他所よその亀山じょうとまちがえられて、天守てんしゅこわされてしまったと書いてあるものもあるの。三重櫓さんじゅうやぐら天守てんしゅって書いたのは、きっと1番高い建物たてものだったからなんだね。
 ちなみに、三重櫓さんじゅうやぐら本丸ほんまる北側きたがわにあったやぐらなの。常設展示室じょうせつてんじしつにおしろ模型もけいがあるから、あとでさがしてみて。1番が高いから、きっとすぐみつかるよ。


[4-5]
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 1872年(明治めいじ5)ごろの、こわされる前に撮影さつえいされたと思われる写真しゃしんです。「勢州亀山見聞記せいしゅうかめやまけんぶんき」(個人所蔵こじんしょぞう)の記録きろくによれば、三重櫓さんじゅうやぐらは14メートルくらいあったようです。
4-5:三重櫓(さんじゅうやぐら)(古写真)
1872年(明治5)頃
亀山市歴史博物館所蔵

[4-6] 3.24MB
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本丸ほんまるえがかれた絵図。本丸は現在げんざいのますみじどうえん多門櫓たもんやぐら・亀山神社じんじゃがある一帯いったいです。
三重櫓さんじゅうやぐらは、ちょうど、菖蒲池しょうぶいけにくだる階段かいだんよこの少し高くなっている場所ばしょっていました。絵図では、上部中央じょうぶちゅうおうに「三重櫓さんじゅうやぐら」と記されています。
4-6:本丸絵図(ほんまるえず)
亀山市歴史博物館所蔵加藤家文書


(3)亀山城かめやまじょうの中で1番広い建物たてもの -二之丸御殿にのまるごてん

 亀山じょう二之丸にのまるてられていた「二之丸御殿にのまるごてん」には、城主じょうしゅまい(プライベート部分ぶぶん)と、政治せいじをおこなう役所やくしょ家来けらいあつまる大きな部屋へやががあったんだよ。だから、二之丸御殿にのまるごてんは、亀山じょうの中でも1番広い建物たてものだったの。
 ちなみに、二之丸御殿にのまるごてんがあった場所ばしょは、今の亀山西小学校だよ。


[4-7]
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三重櫓さんじゅうやぐらと同じように、1872年(明治めいじ5)ごろに、こわされる前に撮影さつえいされたと思われる、二之丸御殿にのまるごてん写真しゃしんです。
4-7:二之丸御殿(にのまるごてん)(古写真)
1872年(明治5)頃
亀山市歴史博物館所蔵

[4-8] 3.9MB
[4-8]
二之丸御殿にのまるごてんえがいた絵図です。1番おく城主じょうしゅ住居じゅうきょ(プライベートな場所ばしょ)、なか政治せいじをおこなう場所ばしょです。むかしの字で「三府役所さんぷやくしょ」と書かれている部屋へやがあります。手前は、家来けらいあつまる大きな部屋へやです。
4-8:二之丸御殿絵図(にのまるごてんえず)
亀山市歴史博物館所蔵加藤家文書