3.神社・寺院からみつけた1番
市内にたくさんある神社や寺院。ふだん「お宮さん」とか「お寺さん」とよんだり、正月に初詣にいったり、お祭りとかいろんな行事が行われて、わたしたちにとって、とっても身近な場所だね。
これらの神社や寺院にも、いろんな歴史があるんだ。このコーナーでは、そんな神社や寺院の歴史の中からみつけた1番を紹介するよ。 |
(1)神社の1番目の鳥居 -能褒野神社一の鳥居- |
みんなも知っているとおり、神社には必ず鳥居があるよね。鳥居は、神様がいる場所(神域)の入り口をしめしていて、かんたんに言えば、神様のお家の門なんだ。そして、この鳥居は1つの神社に1つとはかぎらない。みんなのお家のちかくの神社にはいくつあるかな。
ここで紹介するのは、たくさんある鳥居のうち、亀山駅のロータリーに建っている鳥居だよ。でも亀山駅には神社はないよね。ふしぎだね。じつは、この鳥居は、「1.土の中からみつかった1番」のコーナーで紹介した、能褒野王塚古墳のとなりにある能褒野神社の1番目の鳥居なんだ。1番目だから「能褒野神社一の鳥居」というよ。
能褒野神社は、1925年(大正14)6月9日に村社から県社にランクがあがったんだ。そこで、このことをたたえて、亀山駅から能褒野神社へ行く道の途中2か所に鳥居を建てることになったんだ。鳥居は、翌1926年(大正15)に、一の鳥居を亀山駅近くの「南崎」の交差点のところに、二の鳥居を栄町の旧東海道脇の露心庵跡から北にのびる道の入り口に、能褒野保勝会というグループが建てたんだよ。今から92年前だね。その後、道を広げるためにおひっこしをしなければならなくなって、最終的に今の場所にうつされたんだって。
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現在の能褒野神社一の鳥居。1986年(昭和61)に亀山駅ロータリーにうつされました。「能褒野神社」と書かれた扁額がかかっています。
3-1:能褒野神社一の鳥居(のぼのじんじゃいちのとりい) 平成30年6月13日撮影
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1926年(大正15)、現在の「南崎」交差点の場所に建てられた能褒野神社の一の鳥居です。写真手前が、亀山駅方向です。
3-2:能褒野神社一の鳥居(のぼのじんじゃいちのとりい)(古写真) 亀山市歴史博物館所蔵
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道路を広げようとしたら、鳥居の片足が道路のまん中にきてじゃまになってしまったので、1969年(昭和44)3月に、道路の東側にひっこししました。
3-3:能褒野神社一の鳥居(のぼのじんじゃいちのとりい)(古写真) 亀山市歴史博物館所蔵
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(2)1番古い手紙 -熊野三山検校覚仁法親王令旨- |
みんなは、手紙を書いたりもらったりしたことはあるかな。むかしは、今みたいに電話もメールもなかったから、手紙をたくさん書いていたの。
だから、市内でむかしの人が書いた手紙で1番古いものをさがしてみたら、和田町にある石上寺というお寺がもっていた、「熊野三山検校覚仁法親王令旨」と名前がつけられた手紙が、今のところもっとも古いということがわかったの。この手紙は、法印というお坊さんが越後法眼御房というお坊さんへ1256年(建長8)8月27日に書いた手紙なの。今から762年前なんだよ。すごいね。
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3-4:熊野三山検校覚仁法親王令旨(くまのさんざんけんぎょうかくにんほっしんのうりょうじ) 1256(建長8)8月27日 石上寺寄託
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この手紙に書いてある内容は、那智山(青岸渡寺、和歌山県)の執行職として、以前の例のとおりお寺の仕事をさせるよう、検校法親王(後鳥羽天皇の皇子の覚仁で、熊野三山をとりしきるえらい人)からのいいつけです、と法印というお坊さんが越後法眼御房というお坊さんに伝えたものです。
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(3)1番古い建物 -地蔵院愛染堂- |
またお寺からみつかった1番だよ。市内には、国や市の指定文化財になっている建物がいくつかあるんだ。これらの建物を古い順にならべたら、なんと、1番から3番まで関町新所にある地蔵院が占めていた。その中で1番古いのは愛染堂で、江戸時代初期の1630年(寛永7)に建てなおされたんだって。このことは1957年(昭和32)に修理をした時にわかったんだよ。そして今の本堂ができるまでは、こっちが本堂だったっんだ。ちなみに2番は鐘楼で、1644年(寛永21)に建てられていて、3番は1700年(元禄13)に建てなおされた今の本堂なんだって。どの建物も300年以上前の建物なんて、君は知ってた?
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市内にあった加藤書店が発行した絵葉書にも愛染堂の写真が使われました。むかしから名所だったことがわかります。
3-5:関地蔵院愛染堂(せきじぞういんあいぜんどう)(絵葉書) 個人所蔵
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3-6:関地蔵菩薩略縁起(せきじぞうぼさつりゃくえんぎ) 1695年(元禄8) 地蔵院所蔵
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この略縁起は、新らしく本堂を建てるために、たくさんの人に協力してもらおうと、当時住職だった宣雅によって、1695年(元禄8)に書かれたものです。行基というお坊さんが地蔵院の本尊である地蔵菩薩(お地蔵さん)を彫ったことや、一休和尚が仏に目を書き、魂を入れる点眼供養をしたことなど、地蔵院のはじまりからのできごとのほか、本尊の地蔵菩薩はとってもすばらしいご利益があることなどが記されています。
そして、新しい本堂を建てるために、それまでの本堂は、少し移動させて愛染堂という名前がつけられました。つまり、新しい本堂が建てられたことで、現在の愛染堂は、本堂としての役目を終えたのです。
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3-7:東海道五十三次絵本駅路鈴 関(とうかいどうごじゅうさんつぎえほんえきろのすず せき)(浮世絵) 亀山市歴史博物館所蔵
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この絵は葛飾北斎という画家が描き、江戸時代(1810年頃)に刊行された版画で、浮世絵といいます。浮世絵の中の風景画とよばれるジャンルの中で、東海道はよく描かれ、その中で関宿が描かれる際には、当時から名所であった地蔵院が描かれることが多かったようです。
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歌川国輝によって描かれた浮世絵で、1865年(慶応元年)に出版されました。こちらにも地蔵院が描かれていますが、地蔵院を見ずに描いているので、屋根の形など実際とはちがっています。
3-8末広五十三次 関(すえひろごじゅうさんつぎ せき)(浮世絵) 亀山市歴史博物館所蔵
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