亀山市歴史博物館
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交換転封以前の
備中松山と伊勢亀山

備中松山と伊勢亀山
の交換転封

交換転封後の
備中松山と伊勢亀山

もう1つの亀山
-1万石13ヵ村-

現在の亀山市と
高梁市との交流

2.備中松山と伊勢亀山の交換転封てんぽう

 延享元年(1744)、伊勢亀山城主の大名板倉勝澄かつずみと備中松山城主の大名石総慶ふさよしによる交換転封がおこなわれた。この交換転封がおこなわれた理由は、『徳川実記』によれば、亀山城主の板倉勝澄が「長病」で、「要地の鎮とせられがたき」ことにあった。このコーナーでは、板倉家・石川家が幕府より交換転封を言い渡された時から、転封を終えるまでの動きを両大名家の視点から紹介し、実際に交換転封がどのように行われたのか、その実態を明らかにする。


延享元年(1744)備中松山と伊勢亀山の交換転封における
上使じょうし(幕府側の役人)


松山城引き渡し
川勝左京
(使番)
牧野靱負
(使番・西の丸小姓頭)
亀山城引き渡し
雨宮権左衛門
(使番)
榊原八郎兵衛
(書院番)


(1)交換転封の過程-板倉家の場合-

交換転封における板倉家の動き
2月晦日 明日江戸城に登城するようにという内容の老中奉書が届く。
3月1日 江戸城勘定所において老中より、所替(転封)を命じられる。勝澄は長患い中のため、遠藤備前守に名代を頼む。
3月2日 勘定組頭より、所替について尋ねたいことがあると帳面を1冊を渡され、「亀山五ヶ年平均物成帳面」を仕立て、早々に差し出すように言われる。まず麁帳のまま急ぎ差し出すように言われる。
3月5日 江戸より亀山へ所替を伝える書状が到着。
3月6日 家臣へ所替が伝えられる。幕府からの指示である「亀山五ヶ年平均物成帳面」を2日間で作成することが決定する。
3月7日 町・郷中へ所替が伝えられる。大庄屋は、通常の行動を心がけることなどの通達が出される。
3月10日 御用番松平伊豆守用人より所替の上使が発表される。
3月13日 松山城請け取りの予備交渉として家臣2名を松山へ派遣。
3月17日 亀山城引き渡しの上使より書付2通を渡される。
松山城引き渡しの上使でより、松山城の請け取りの際の総人数と姓名書を出すよう要請される。
3月22日 所替の御礼に板倉美濃守勝武(勝澄の長男)が名代として江戸城に登城し、溜の間で挨拶する。
3月24日 亀山城引き渡しの上使より、17条の質問(内容①)と亀山領のあらましの絵図2枚(麁紙)を提出するように指示した書付を渡される。
松山城引き渡しの上使より、板倉家と石川家の双方で相談のうえ、3日程候補を挙げるように言われる。
3月27日 石川家臣より、交替日は6月上旬の精進日を除く3日・4日・5日の3日のうちで定めたいと言ってくる。
3月29日 石川家へ使者を派遣し、交替日を6月の4日か5日に決めたい旨伝える。
4月2日 留守居使者より亀山及び松山城引き渡しの上使へ、交替日を6月4日と5日に決めた旨の書付を提出する。この時、御用人へ4日に決めて欲しい旨伝える。
4月3日 留守居が呼び出され、亀山城引き渡しの上使と松山城引き渡しの上使より、交替日を6月4日に決定した旨の書付が渡される。
4月10日 上使より亀山米値段大概書付を差し出すよう言われる。
4月18日 代官多羅尾四郎右衛門と松山から石川家の奉行が到着し、事務的折衝が始まる。
4月20日 松山城引き渡しの上使へ、5月上旬より亀山より松山へ、家臣達を追々遣わす(引っ越す)旨の書付を差し出す。
5月7日 亀山城引き渡しの上使へ、答書として亀山城絵図などの書類を提出する。
5月9日 松山城引き渡しの上使へ、答書として松山城請け取りの惣役人の姓名・入れ代わり時の武具数・人数を書いた書類を提出する。
5月11日 亀山城引き渡しの上使へ、答書として城中番所入れ代え人数ならび武具員数・城引き渡し惣役人の姓名別紙書付、船着(附船数)を書いた書付を提出。また、城付き武具・城米御詰残りを別帳で2冊差し出す。
5月15日 留守居役が江戸城中に呼び出され、石川家留守居役とともに勘定所組頭6人連名による拝領高書付と村高帳を渡される。
5月18日 亀山城引き渡しの上使へ、城中番所の入れ代え人数ならび武具書付の別帳を差し上げる旨と二ノ丸住居小絵図を控えとともに2枚差し上げる旨など、請書を提出。
5月19日 松山城請け取り役が亀山を出発する。(松山到着は26日)
6月1日 亀山城の引き継ぎが完了する。
6月4日 亀山城を石川家へ引き渡す。
内容① 上使からの17条の質問
  1. 言うことではないが、山林竹木を荒らさないよう申しつける。
  2. 地侍や浪人などがいるなら、委細書付を亀山にて受け取る事。
  3. 城建家坪数と城地が何丁四方あるか。
  4. 城の高さの事。
  5. 堀の深さの事。堀幅の事。
  6. 城築は誰かの事と縄張の事。
  7. 代々城主の事。
  8. 弓・鉄砲狭間数の事。
  9. 巣鷹山(※1)があるか。
  10. 入替り番所は何方何と申す所か詳しく承りたい。
  11. 御知行は他の国にもあるか。
  12. 亀山領に、公儀より建てた制札場と法度書があるか。
  13. 公儀よりの伝馬・馬借があるか。
  14. 城下の侍屋敷・足軽屋敷数の事。
  15. 亀山領郡数の事。
  16. 厩数と馬数の事。
  17. 家来鎗印と総人数の合印の書付を差し出すように。
(※1)鷹狩り用の鷹を飼育するために立ち入りを禁止した森林

[2-1]
[2-1]
 大名板倉家に伝わった延享元年(1744)の所替に関する記録。幕府の担当官である上使とのやりとりや、亀山での動き、また交換転封の相手方である石川家との打ち合わせの結果など、当時の動きが詳細に追える資料である。
2-1:延享元甲子年 御所替諸事記 春 延享元年(1744)
高梁市歴史美術館所蔵板倉文書

[2-2]
[2-2]
 内題「延享元年子三月より六月迄奉行方留
    従亀山松山江御所替之節引方覚帳写」

 2-1「延享元甲子年 御所替諸事記 春」と同じく、延享元年(1744)の所替の時の板倉家側の記録。
2-2:従亀山松山江御取替執計帳 冬 延享元年(1744)
高梁市歴史美術館所蔵板倉文書

[2-3]
2-3:頭書 江戸時代
(18世紀前期~19世紀前期)
高梁市歴史美術館所蔵板倉文書
[2-3]
 主に松山領内の番所について記された書付。最初の箇所は、「延享元子年御所替ニ付引送帳」として、松山領内の番所の一覧が記されている。また、「みぎ番所ばんしょ役方やくかた請取うけとり番人ばんにん申付もうしつけそうろう」と書かれていることから、板倉家が松山の番所を請け取ることに関係して作成した書類の内容を控えたものであろう。

[2-4]
[2-4]
 板倉家の家臣が、亀山から松山への引っ越しについて、石川家側が連絡を受けたものを記したものと考えられる。板倉家の家臣が数グループに分かれて松山に引っ越して来たことや、船か陸路かなどについても記載されている。
2-4:板倉衆名書 延享元年(1744)
館蔵加藤家文書36-0-97

[2-5]
[2-5]
 板倉家の家臣のうち、亀山城引き渡し後も亀山へ残っている家臣125人と、江戸に残っている家臣59人の、合計184人の名前を書き上げたもの。亀山に残った125人がどのような理由で亀山に残っていたのかは定かではないが、引き継ぎの関係とも考えられる。
2-5:丑歳亀山残侍分 延享2年(1745)
高梁市歴史美術館所蔵板倉文書

[2-6]
[2-6]
 延享元年(1744)から11年経って、次ぎの所替を想定して作成した覚帳。再び所替を命じられても慌てることがないように作成したものと考えられる。
2-6:宝暦五年亥春改 御所替之節請取方諸事心得覚帳 宝暦5年(1755)
高梁市歴史美術館所蔵板倉文書

[2-7]
[2-7]
 2-6「宝暦五年亥春改 御所替之節請取方諸事心得覚帳」と同じく、次回の所替を想定して作成されたもの。2-6は城の請け取りについて想定したものであるが、こちらは、城を渡すことについて想定して作成したものである。
2-7:従亀山松山江御取替執計帳 穐 宝暦5年(1755)
高梁市歴史美術館所蔵板倉文書

[2-8]
2-8:松山城附武具帳
延享元年(1744)
高梁市歴史美術館所蔵板倉文書
[2-8]
 3月17日に、亀山城引き渡しの上使(幕府役人)である雨宮権左衛門と榊原八郎兵衛から、板倉家が差し出すことを命じられた書類の一つに城付武具帳と城米帳がある。これらは、竪帳に仕立て、年月日を記し、この2冊を袋に入れ、控えとしてもう1組作成し、合計4冊を作成するように指示されている。
 この武具帳は、石川家側が作成したもので、これが板倉家側に渡ったと考えられる。


(2)交換転封の過程-石川家の場合-

交換転封における石川家の動き
2月晦日 明日江戸城に登城するようにという内容の老中奉書が届く。
3月1日 江戸城勘定所において老中より、所替(転封)を命じられる。
3月9日 江戸より松山へ飛脚が到着。
3月10日 御用番松平伊豆守用人より所替の上使が発表される。
3月15日 亀山城請け取りの総体日限が決定する。
3月27日 板倉家へ、交替日を6月上旬の精進日を除く3日・4日・5日の3日のうちで定めたい旨伝える。
3月29日 板倉家より、交替日を6月の4日か5日に決めたい旨伝えられる。
4月2日 留守居使者より亀山城及び松山城引き渡しの上使へ、交替日を6月4日と5日に決めたい旨の書付を提出する。
松山へ所替の役付を書いた書付が届く。
4月4日 松山では、大広間へ諸士を呼び集め、組頭・年寄より所替の御沙汰書(掟書)が読みあげられる。
4月11日 勘定所(江戸城)において、松山を当分の間代官預かりとすると命じられる。
4月18日 松山から奉行が亀山へ行き、代官多羅尾四郎右衛門と事務的折衝を始める。
5月6日 この日より家臣の亀山への引っ越しが始まる。
5月28日 家臣がこの日限りで屋敷を明け、町宿へ移る。
6月4日 松山城を板倉家へ引き渡す。松山惣絵図・山城絵図・根小屋絵図も引き渡す。

[2-9]
[2-9]
 「備中国松山絵図」を引き渡した時の鑑文。日付は、松山と亀山で請け渡しが行われた6月4日になっていることから、この請け渡しの時に引き渡された書類の一つに松山領絵図があったことが確認できる。
2-9:備中国松山領絵図引渡覚書 延享元年(1744)
高梁市教育委員会所蔵資料

[2-10] 
2-10:日々記
   寛保3年(1743)
~延享元年(1744)
館蔵加藤家文書50-0-5
[2-10]
 この日記は、石川家家老の加藤光忠が書いた日記である。この日記のなかで延享元年(1744)の所替について最初に「所替」の文字が記されるのは、4月3日で、この前日に江戸より松山へ所替の役付などの書付が届いたため、翌4日に大広間へ諸士を呼び集めて沙汰書(掟書)を読み上げている。ただし、3月9日に江戸より飛脚が到着しており、「此義このぎ一巻いっかん状ニじょうに記スしるす」とあることから、おそらく松山にいる家臣に所替が伝わったのは、3月9日であろう。

4月4日に家中へ言い渡された所替にあたっての「掟」(口語訳)
   掟

一今度徳川幕府より所替を仰せ付けられ、伊勢国亀山へ引っ越します。所替については、幕府の法令を守り、いいかげんな事がないように、全ての事に慎まなければなりません。

一幕府の御用で通行する衆らへは、下馬し不礼な事がないようにする事。
  附けたり、喧嘩や口論は堅く止めさせる事。もし喧嘩や口論が生じた時、その場にいた者を見逃したなら、処罰します。又、宿の事は、その主人より必ず申し付ける事。

一音楽の演奏やいろいろな商い、勝負事は堅く止めさせる事。

一道中遊女の事は、相☐(判読不能)するように。
  附けたり、大酒は禁止の事。

一組頭、年寄共は言うに及ばす、頭々、目付の者が指図するする事については、間違いがないようにする事。

一道中の宿々において、火の元の事は、きっと心掛ける事。
  附けたり、声高や雑談は不必要の事。

一宿々の善し悪しについて、宿割りの担当者に対し少しも苦情を言わない事。

一宿代は決められた通り出し、亭主より手形を取るように。宿遣い道具を壊した者は、必ずその代わりを用意する事。

一足軽・中間の宿賃の事は、それぞれの頭に申し付けて出すという事。

一泊りの所に着いたならば、道が混雑しないように、組頭・年寄へ見廻り、翌日の言い合わせも 承るようにする事。この時人多く連れる事がないようにする事。又は、遅れの事が生じたならば、一所に集める事。

一宿並びに問屋・馬指・馬子・渡馬・日雇等に至るまで、打擲する事がないようにする事。
  附けたり、船川で、競り合わないようにする事。さて、又荷物貫目、いささかも定より重くしないようにする事。

右の条々、必ずこれを守り、足軽や従者等へは、その頭、その主分が申し付ける事。もし決まりを乱すものがあれば、たとえ後日にそれがわかっても、処罰します。

  四月四日

[2-11]
[2-11]
 延享元年(1744)の所替について、石川家側の資料はあまり多く残されておらず、これは、その中でも、比較的よく石川家側の動きがわかる数少ない資料である。

2-11:松山ヨリ亀山江御所替ニ付諸事覚書
延享元年(1744) 館蔵加藤家文書2-0-115

[2-12]
[2-12]
 延享元年(1744)の所替について、6月4日に行われた亀山請け取りや、松山城や諸番所の引き渡しの担当者などが記された資料。役付以外にも4月4日に家中に言い渡された「掟」なども記されている。
2-12:松山ヨリ亀山江御所替ニ付役付之覚 延享元年(1744)
館蔵今井家文書2-53

[2-13] ※3.15mb
2-13:延享元年五月城主交代引渡済根小屋絵図(写)
明治時代
高梁市教育委員会所蔵資料
[2-13]
 備中松山における藩主の居館である根小屋の絵図。延享元年(1744)の交換転封時に石川家から板倉家に渡された絵図を後に模写したものである。
 根小屋は城のある山の麓にあり、東・北の山を背にし、南・西の二方に石垣及び長屋を連ねた中に御殿を配している。根小屋は西を正面として、門をはいるとその正面に式台・広間などの表向の諸室があり、これと接続して北側に藩主の執務空間にあたる役所がある。藩主の日常の生活に使用される奥向おくむきは、東最奥にあって、表向おもてむき・役所と廊下でつながっている。表向・役所・奥向の空間を別棟で建て廊下等でつなげる形式は、大名家の藩主居館として典型的な構成である。
 絵図を作成した「柴倉万右衛門正勝」は、備中松山西方村柴倉(現高梁市中井町)と中津井(現真庭市中津井)で活躍した宮大工の家柄で、この地方での多くの寺社の建築に関わっている。