1.交換転封以前の備中松山と伊勢亀山
江戸時代、所替により亀山へ2回入封した大名家に、石川家と板倉家がある。2回目にあたる延享元年(1744)の所替では、この両家がそれぞれの領地を交換する交換転封がおこなわれた。しかし、石川家が備中松山で、板倉家が伊勢亀山でどのようなことをしていたかは、実はあまり知られていない。 そこで、このコーナーでは、現地に残された遺物などの痕跡や関係する古文書などから、松山にいた頃の石川家と亀山にいた頃の板倉家の足跡を確認していく。 |
(1)備中松山-石川家が城主だった頃- |
(2)伊勢亀山-板倉家が城主だった頃- |
板倉家系譜外伝は、全32冊にわたる大名板倉家の家譜であり、展示しているのは、そのうちの亀山城主時代を記載している「重常公 十四」・「重冬公 十五」・「重治公 勝澄公 十六」の3冊である。記載された事跡の中から、当時、亀山で板倉家がおこなった藩政の一端を垣間見ることのできる貴重な資料である。 1-9:板倉家系譜外伝 江戸時代(18世紀後期)
八重籬神社所蔵高梁市歴史美術館寄託資料
板倉家4代板倉重常の肖像画。板倉家の中で最初に亀山城主になった人物である。 亀山城主:寛文9年(1669)~元禄元年(1688) 1-10:板倉重常肖像画 江戸時代(17世紀後半)
長圓寺所蔵西尾市岩瀬文庫寄託資料
板倉家5代板倉重冬の肖像画。 亀山城主:元禄元年(1688)~宝永6年(1709) 1-11:板倉重冬肖像画 宝永6年(1709)
長圓寺所蔵西尾市岩瀬文庫寄託資料
板倉家6代板倉重治の肖像画。板倉家6代板倉重治の肖像画。宝永7年(1710)に亀山から鳥羽へ移封した後、再び享保2年(1717)に亀山城主に任じられた。 亀山城主:宝永6年(1709)~宝永7年(1710)
享保2年(1717)~享保9年(1724) 1-12:板倉重治肖像画 宝永6年(1709) 長圓寺所蔵西尾市岩瀬文庫寄託資料
板倉家7代板倉勝澄の肖像画。勝澄が長病であったため、要地の鎮めとしがたいという理由で、延享元年(1744)に幕府より備中松山への転封を命じられた。 亀山城主:享保9年(1724)~延享元年(1744)
1-13:板倉勝澄肖像画 宝永6年(1709) 長圓寺所蔵西尾市岩瀬文庫寄託資料
☐☐せハ 松もまハらに ちる花の ゆう日をみかく 遠山の里 勝澄 板倉勝澄直筆の和歌。亀山城主時代と松山城主時代のどちらの頃に詠んだ歌かは不明。 1-14:板倉勝澄和歌短冊 江戸時代(18世紀) 高梁市歴史美術館所蔵資料
板倉家は寛文9年(1669)~宝永7年(1710)、享保2年(1717)~延享元年(1744)の2度亀山城主をつとめたが、2度目の亀山在城時の家臣の配置を記した城下絵図である。 裏書に「延享元子年所替ニ付板倉様御家中ヨリ来石 板倉勢州亀山城図並士屋布割」とある。延享元年の交換転封にあたっては、加藤光忠が亀山城請取御用をつとめており、引き継ぎとして本図を受け取ったと考えられる。 城を図の中央に描き、東海道が城の南側(下)を左右に横断している。城内は空白で、武家屋敷にはそれぞれ家臣名と役名、石数等が記されている。一方、東海道沿いに続く町地は桃色に着色されている。西之丸の後に石川家家老加藤家の屋敷となる箇所は、「千二百石 城代家老板倉杢右衛門」の屋敷である。また、現在本久寺のある位置には板倉家の菩提寺である安正寺がある。 板倉家の亀山での事跡としては、京口門(寛文12年(1672))や江戸口門(延宝元年(1673))の築造など城下の骨格を固めたことがあげられるが、これらは1回目の城主時代である。
亀山城二之丸の発掘調査で見つかった九曜巴の家紋入りの鬼瓦。九曜巴は、板倉家の家紋の中で最もよく使われる家紋である。この瓦がみつかったことから、板倉家が亀山城主の時代に、何らかの事情によって亀山城の瓦の吹き替えをおこなったことがうかがえる。 1-16:亀山城九曜巴鬼瓦 江戸時代(17世紀後期~18世紀前期) 亀山市(まちなみ文化財室)所蔵資料
5万石の大名である板倉家の伊勢国鈴鹿・河曲・三重郡のうち、亀山領85ヵ村4万9千石と武蔵国の4ヵ村千石の領地宛行状。本来、亀山領は城付き86ヵ村5万石であるが、板倉家が武蔵国にあった先祖代々の領地4ヵ村千石分を幕府に願い出てそのまま領地として継承したため、代わりに川嶋村千石分が亀山領から外され、亀山城付き85ヵ村の領地が宛行われた。
板倉重冬への領地宛行状。鈴鹿郡72ヵ村・河曲郡8ヵ村・三重郡5ヵ村で5万石と記載され、武蔵国の先祖からの領地4ヵ村千石は含まれていない。また、合計85ヵ村ではあるが、「板倉家系譜外伝」に書き写された領地目録をみると弓削村と岡田村が弓削岡田村として1ヵ村に扱われているので、実際は86ヵ村である。
板倉重治への領地宛行状。鈴鹿郡75ヵ村・河曲郡8ヵ村・三重郡5ヵ村、合計88ヵ村5万石の領地となっている。「板倉家系譜外伝」に写された領地目録をみると、弓削岡田村は1ヵ村として扱われ、さらに通常村数に数えない枝郷の奈良新田・京新田・小谷新田が数えられていることがわかり、足して引けばやはり亀山城付き86ヵ村5万石の領地が宛がわれている。
日照山円福寺は、亀山市住山町に所在する黄檗宗寺院である。往古は住山寺と称していたが、正徳6年(1716)に寺名を円福寺に改めた。現在地に伽藍が整えられるのは延宝頃(1673~1681)のことである。経堂は、江戸寛永寺の錦袋円法印了応の施料により「鉄眼版一切経」(市指定有形文化財)の寄進をうけ、これを納めるために元禄14年(1701)に建立され、その後、享保19年(1734)に再建されたと考えられる。 棟札には、 「右経堂者 享保十九甲寅秋九月落成 亀山城主板倉防州大守勝澄公建立之 奉請侍大士 日照山圓福代四代主竜山浄高記之」 とあり、亀山城主板倉勝澄の寄進によると考えられる。
亀山城主板倉重常の室筆子の自筆と伝わる和歌。これがみつかった照光寺では、板倉筆子の位牌も祀られており、この和歌の文頭にもあるように、元禄2年(1689)の秋に、板倉筆子の法号である「照光院」から寺号としたと伝わっている。 1-21:板倉筆子和歌 江戸時代(17世紀後期) 照光寺所蔵
亀山城主板倉重常の家老大石三右衛門と板倉杢右衛門から池山村の庄屋・百姓へ宛てられた新田証文。野登寺の費用で開発した新田にかかる年貢の1割を野登寺へ上納するということが書かれている。城主板倉家と野登寺の関係がわかる資料である。 1-22:新田証文之事 延宝7年(1679)
野登寺所蔵資料
板倉家が亀山城主の頃、照光寺の付近で曲がっていた竜川をまっすぐに直す改修工事をしたことが書かれている。 1-23:柴田厚二郎編纂「鈴椋両川改修者生田理左 衛門之伝記」 昭和時代(20世紀前期) 館蔵林・徳森家文書23-4
橋爪家先祖の休意が亀山城主板倉家から拝領した鳩の杖。休意は一代で身を興し、板倉家の鳥羽から亀山への所替の費用の他、様々な御用金を用立てたことから、以後、橋爪家と板倉家は深い関わりを持った。 1-24:扶老杖 江戸時代(18世紀前期)
橋爪家所蔵資料
扶老杖と同じく橋爪家の先祖が板倉家から拝領した裃。板倉家の家紋である九曜巴紋が入っている(袴は腰板部分に紋が入る)。橋爪家は、板倉家が備中松山に転封となった後も、参勤交代などでこの地域を通過する折りには、必ず挨拶のために板倉家当主に目通りすることが通例であった。 |