亀山市歴史博物館
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交換転封以前の
備中松山と伊勢亀山

備中松山と伊勢亀山
の交換転封

交換転封後の
備中松山と伊勢亀山

もう1つの亀山
-1万石13ヵ村-

現在の亀山市と
高梁市との交流

1.交換転封てんぽう以前の備中松山と伊勢亀山

 江戸時代、所替ところがえにより亀山へ2回入封にゅうほうした大名家に、石川家と板倉家がある。2回目にあたる延享元年(1744)の所替では、この両家がそれぞれの領地を交換する交換転封てんぽうがおこなわれた。しかし、石川家が備中松山で、板倉家が伊勢亀山でどのようなことをしていたかは、実はあまり知られていない。
 そこで、このコーナーでは、現地に残された遺物などの痕跡や関係する古文書などから、松山にいた頃の石川家と亀山にいた頃の板倉家の足跡を確認していく。


(1)備中松山-石川家が城主だった頃-

[1-1]
[1-1]
 大名石川家の家譜である難破録なんぱろく。紹介している部分は、延享元年に交換転封てんぽうを命じられた石川総慶ふさよしの部分である。石川総慶ふさよしは、正徳元年(1711)4月4日に城州淀から備中松山へ所替ところがえ、延享元年(1744)3月1日に備中松山から勢州亀山へ所替ところがえを命じられた。
1-1:難破録なんぱろく 天保4年(1833)
館蔵加藤家文書44-0-13

[1-2] 
[1-2]
 石川総慶ふさよしが松山城主時代の江戸城や松山(根小屋ねごや)での行事などを記した覚書。正月行事などがうかがえる貴重な資料である。


1-2:松山諸事覚書 江戸時代(18世紀前期)
館蔵加藤家文書63-11-90

備中松山城の構造

 備中松山城は、高梁川東岸、城下の北にある標高478mの臥牛山山頂にある。臥牛山は大松山おおまつやま小松山こまつやま天神丸てんじんのまる前山まえやまの4峰からなる。
 小松山が近世城郭の中核をなす部分であり、「本丸」「二之丸」「厩曲輪」「三之丸」にわかれている。小松山から尾根伝いに下った位置に中太鼓櫓、下太鼓丸しもたいこのまる(前山)が並ぶ。小松山の城郭としての整備は、天和元年(1681)から同3年(1683)にかけての当時の城主水谷勝宗みずのやかつむねによるものである。
 さらに下った臥牛山麓にある「御根小屋」が藩主居館、及び政庁である。「御根小屋」の整備は、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後備中松山城の御城番となった小堀正次・政一によるものとされる。
 大松山は鎌倉時代から戦国時代にかけて使用された中世城郭である。小松山と大松山との間には幅の広い「堀切」がある。天神丸も中世城郭の一部であるが、近世においては「天満宮」が祀られ城主の信仰を受けていた。大松山と天神丸との中間に大池おおいけがあるが、小松山から大松山に抜ける門は「水手門」とされており、大池は山城での貴重な水場であったと考えられる。
 中世から近世に至る備中松山城跡が「備中松山城跡」として国史跡に指定されるとともに、本丸にある天守てんしゅ二重櫓にじゅうやぐら、三之丸を囲む三の平櫓さんのひらやぐら東土塀ひがしどべいが「備中松山城」として国の重要文化財(建造物)に指定されている。

[1-3]
1-3:備中松山御城図
江戸時代(18世紀前期)
館蔵加藤家文書66-0-207
[1-3]
 石川家在城時代(正徳元年(1711)~延享元年(1744))の備中松山城を描いた絵図。右図では近世における備中松山城の中核である小松山を中心に、その北側(図右)に堀切を挟んで大松山・大池・天神の丸が、南側(図左)に小松山から尾根伝いに南に続く中太鼓櫓、下太鼓丸が描かれ、さらには臥牛山麓にあった藩主居館である「根小屋」が示されており、備中松山城の全体を把握することができる。
 地形的表現は正確さを欠くが、石垣、門、櫓、塀などが建築的表現を用いて描写されている。

[1-4]
[1-4]
 石川家在城時代(正徳元年(1711)~延享元年(1744))の備中松山城を描いた絵図。「二分一間」とあり、2分(約6mm)を1間(約1.8m)とする縮尺300分の1の実測図である。小松山から中太鼓櫓、下太鼓丸にかけての範囲が描かれている。
1-4:備中松山城図 江戸時代(18世紀前期)
館蔵加藤家文書66-0-12

[1-5]
[1-5]
 松山城でみつかった鬼瓦。石川家の家紋の一つである蛇目紋がはいっている。銘文などの記載はないが、石川総慶ふさよしが松山城主時代に、松山城の修復をおこなったことがうかがえる資料。

1-5:松山城蛇目鬼瓦 江戸時代(18世紀前期)
高梁市教育委員会所蔵資料

備中松山城下の構造と家臣や寺の配置

 備中松山城下は、高梁川の東岸の狭い平野部にある。城は城下北側の臥牛山がぎゅうさん上にあり、臥牛山麓に藩主の居館と政庁を兼ねた根小屋ねごやがある。臥牛山中から根小屋南側を経て高梁川に流れ込む「谷川筋」、及びその南側にある小河川を堀に見立てた配置となっている。
 武家屋敷は谷川筋北側と、谷川筋の南側では平野東側の山麓に集められている。谷川筋北側の武家屋敷は、高梁川と谷川筋によって曲輪くるわが構成されており、正面を西に向ける根小屋の門前となって、藩の重臣が配置されている。石川家の家老である加藤家は、根小屋門前の谷川筋に接した位置に「加藤斎院」の名で記されている。一方、谷川筋南側は根小屋から南に離れるに従い屋敷規模が小さくなっている。
 寺院・神社は、城下東側山麓の武家地より一段高い位置に並び寺町を構成している。寺地を確保するための高い石垣が並ぶ景観は、城郭を想わせ特徴的である。一部寺院は武家屋敷中に散在するが、石川氏在城時代においては本久寺、柔順寺(後に本宗寺)で藩主の菩提寺である。これら藩主とともに移動した寺院に対し、武家地の一角が与えられたものと考えられ、交換転封によって本久寺は板倉家の菩提寺である安正寺と入れ替わっている。
 町は武家屋敷と高梁川とに挟まれた位置に、谷川筋に面した「御門」前から本町、下町、南町と続くが、さらにこれらと並行して1~2筋がある。
 高梁川東岸には、石で築かれた河岸かしが設けられており、備中松山城下が舟運の拠点であったことがわかる。

[1-6]
1-6:備中松山城下
石川家中屋敷割絵図
江戸時代(18世紀前期)
館蔵加藤家文書66-0-32
[1-6]
 石川家の備中松山在城時代(正徳元年(1711)~延享元年(1744))の家臣の配置を記した城下絵図。高梁川を図下(西)に配置し、東側の山を背景にして高梁川に沿って城下を描いている。城は図左上(北)の山中にある。城及び根小屋には絵画的表現が用いられ、武家屋敷には家臣名が記されている。町には所有者等が記されていないが、屋敷割を記す線が記されている。

2枚の松山時代加藤家屋敷絵図

 石川家は、正徳元年(1711)から延享元年(1744)までの33年間備中松山城主をつとめるが、加藤家もこれに従って備中松山に居住している。加藤家の屋敷は、「備中松山城下石川家中屋敷割絵図」及び2枚の屋敷図によって、根小屋門前に隣接し谷川筋に接したこの場所であったと考えられる。
 2枚の屋敷図では、屋敷は同一であるものの、屋敷内の建造物の構成は異なっており、加藤家では備中松山での33年間に、屋敷内の主要な建造物の建替えを行ったことになる。ここで問題となるのは、2枚の屋敷図の前後関係である。両図には作成年等は記載されていないが、両図に描かれた内容を確認すると、両図に共通する「土蔵」がある一方で「松山時代 加藤家屋敷図」にのみ「新土蔵」が描かれている。このことから、相対的には「松山時代 加藤家屋敷図(方眼付)①」が古く、「松山時代 加藤家屋敷図(方眼付)②」が新しいこととなる。そして、33年間という居住期間を考えると、「松山時代 加藤家屋敷図(方眼付)」は加藤家が入封時に与えられた屋敷の状態を示し、「松山時代 加藤家屋敷図」は加藤家によって建替えられ、交換転封によって板倉家家臣に引き渡した屋敷の状態を示していると考えることができる。
 両図の建造物を見比べると、居室の構成はほぼ共通しているものの、各居室間の動線が整理され、居室構成も簡略化された印象を受ける。
 加藤家については、松山後に生活することとなる亀山城下西之丸における屋敷図も残されており、これらとあわせて考えることで武家における連続的な屋敷の変化をたどることができる。

[1-7]
1-7:松山時代加藤家屋敷図①
江戸時代(18世紀前期)
館蔵加藤家文書66-6-174
[1-7]
 備中松山における加藤家の屋敷絵図。紙に方眼を型押し、これに沿って間取り等を記している。
 台形の敷地形状で、南側に「谷川」が通ることから、「備中松山城下石川家中屋敷割絵図」における「加藤斎院」の屋敷位置であると考えられる。
 屋敷正面を屋敷西側を通る街路に向け、街路に面して門、長屋門を配する。また、谷川に面して「物見」が設けられている。門を入ると正面左手に式台、玄関があり、さらに左手に小書院などの座敷が並んでおり、表向の空間である。
 一方、門正面からは土間、広敷、台所、居間、奥間と続く居住空間(奥向)である。

[1-8]
1-8:松山時代加藤家屋敷図②
江戸時代(18世紀前期)
館蔵加藤家文書66-6-175
[1-8]
 備中松山における加藤家の屋敷絵図。
 屋敷正面を屋敷西側を通る街路に向け、街路に面して門、長屋門を配する。門を入ると正面左手に式台、玄冠があり、さらに左手に座敷が並んでおり、表向の空間である。一方、門正面からは土間、広敷、台所、居間、奥と続く居住空間(奥向)である。
 街路に面して建つ長屋は、内部が「若党」「馬屋」「中間」などに分けられており、亀山市内に現存する「加藤家長屋門」(市指定有形文化財)の内部構成と一致している。


(2)伊勢亀山-板倉家が城主だった頃-

[1-9]
[1-9]
 板倉家系譜外伝は、全32冊にわたる大名板倉家の家譜であり、展示しているのは、そのうちの亀山城主時代を記載している「重常公 十四」・「重冬公 十五」・「重治公 勝澄公 十六」の3冊である。記載された事跡の中から、当時、亀山で板倉家がおこなった藩政の一端を垣間見ることのできる貴重な資料である。
1-9:板倉家系譜外伝 江戸時代(18世紀後期)
八重籬神社所蔵高梁市歴史美術館寄託資料

「板倉家系譜外伝」に記された事跡にみる亀山
重常しげつね 寛文9年
(1669)
2月25日 幕府より亀山へ所替を命じられる。
亀山城は東に桑名の海があり、西にある鈴鹿峠があり、東海道の要害の地である。この亀山の地を賜ることは大変な厚遇である。そして、亀山城の外に門を新たに建て、東海道の固めにする重常の考えが、将軍の耳に達する。
4月晦日 上使より亀山城を請け取る。
(未載) 城下の亀山宿については、東海道の宿なので、非常時の取り締まりのために、幕府に伺いを立てた上で、東西の入り口に惣門を新たに建てる。これを京口・江戸口と名付ける。
寛文年中 野村の照光寺へ新田1反2畝歩を寄付する。
延宝7年
(1679)
2月 住山村の円福寺へ観音仏法田として5石と境内山林・竹林を寄付する。
天和2年
(1682)
8月 守山宿にて朝鮮通信使の饗応役を務める。
(未載)
(1682)
(未載) 阿野田村の慈眼寺へ照光院殿兆伝子筆の十一面観音掛物と祠堂金30両を寄付する。
重冬しげふゆ 元禄5年
(1692)
11月1日 野村の照光寺へ高3石と寺内2反7畝28歩を寄付する。
元禄8年
(1695)
正月18日 坂本村の野登寺へ灯籠を寄進する。
元禄10年
(1697)
閏2月4日 幕府より、桑名城主松平定重とともに伊勢国絵図の作成を命じられる。
元禄14年
(1701)
5月9日 石坂門の下で赤堀水之介が石井兄弟に討たれる。
重治しげはる 宝永7年
(1710)
正月26日 幕府より鳥羽へ所替を命じられる。
享保2年
(1717)
10月8日 幕府より亀山へ所替を命じられる。
享保3年
(1718)
3月6日
3月11日
亀山城を請け取り、鳥羽城を請け渡す。
享保4年
(1719)
守山宿にて朝鮮通信使の饗応役を務める。
勝澄かつずみ 享保12年
(1727)
正月 東町の八幡宮境内にある稲荷へ新畑高2石4斗を寄付する。
元文5年
(1740)
11月 西新町で出火、町内残らず焼失にて、建家間口1間につき金2両ずつ貸す。
延享元年
(1744)
3月1日 幕府より備中松山へ所替を命じられる。

[1-10]
[1-10]
 板倉家4代板倉重常しげつねの肖像画。板倉家の中で最初に亀山城主になった人物である。
 亀山城主:寛文9年(1669)~元禄元年(1688)

1-10:板倉重常肖像画 江戸時代(17世紀後半)
長圓寺所蔵西尾市岩瀬文庫寄託資料

[1-11]
[1-11]
 板倉家5代板倉重冬しげふゆの肖像画。
 亀山城主:元禄元年(1688)~宝永6年(1709)


1-11:板倉重冬肖像画 宝永6年(1709)
長圓寺所蔵西尾市岩瀬文庫寄託資料

[1-12]
[1-12]
 板倉家6代板倉重治しげはるの肖像画。板倉家6代板倉重治の肖像画。宝永7年(1710)に亀山から鳥羽へ移封した後、再び享保2年(1717)に亀山城主に任じられた。
 亀山城主:宝永6年(1709)~宝永7年(1710)
      享保2年(1717)~享保9年(1724)
1-12:板倉重治肖像画 宝永6年(1709)
長圓寺所蔵西尾市岩瀬文庫寄託資料

[1-13]
[1-13]
 板倉家7代板倉勝澄かつずみの肖像画。勝澄が長病であったため、要地の鎮めとしがたいという理由で、延享元年(1744)に幕府より備中松山への転封を命じられた。
 亀山城主:享保9年(1724)~延享元年(1744)
1-13:板倉勝澄肖像画 宝永6年(1709)
長圓寺所蔵西尾市岩瀬文庫寄託資料

[1-14]
[1-14]
☐☐(見渡ヵ)せハ 松もまハらに ちる花の
ゆう日をみかく 遠山の里  勝澄

 板倉勝澄直筆の和歌。亀山城主時代と松山城主時代のどちらの頃に詠んだ歌かは不明。
1-14:板倉勝澄和歌短冊 江戸時代(18世紀)
高梁市歴史美術館所蔵資料

[1-15] ※1.89mb
1-15:延享元年亀山城下
板倉家中屋敷割絵図
江戸時代(18世紀)
館蔵加藤家文書66-0-17
[1-15]
 板倉家は寛文9年(1669)~宝永7年(1710)、享保2年(1717)~延享元年(1744)の2度亀山城主をつとめたが、2度目の亀山在城時の家臣の配置を記した城下絵図である。
 裏書に「延享元子年所替ニ付板倉様御家中ヨリ来石 板倉勢州亀山城図並士屋布割」とある。延享元年の交換転封にあたっては、加藤光忠が亀山城請取御用をつとめており、引き継ぎとして本図を受け取ったと考えられる。
 城を図の中央に描き、東海道が城の南側(下)を左右に横断している。城内は空白で、武家屋敷にはそれぞれ家臣名と役名、石数等が記されている。一方、東海道沿いに続く町地は桃色に着色されている。西之丸の後に石川家家老加藤家の屋敷となる箇所は、「千二百石 城代家老板倉杢右衛門」の屋敷である。また、現在本久寺のある位置には板倉家の菩提寺である安正寺がある。
 板倉家の亀山での事跡としては、京口門(寛文12年(1672))や江戸口門(延宝元年(1673))の築造など城下の骨格を固めたことがあげられるが、これらは1回目の城主時代である。

[1-16]
[1-16]
 亀山城二之丸の発掘調査で見つかった九曜巴の家紋入りの鬼瓦。九曜巴は、板倉家の家紋の中で最もよく使われる家紋である。この瓦がみつかったことから、板倉家が亀山城主の時代に、何らかの事情によって亀山城の瓦の吹き替えをおこなったことがうかがえる。
1-16:亀山城九曜巴鬼瓦 江戸時代(17世紀後期~18世紀前期)
亀山市(まちなみ文化財室)所蔵資料

[1-17]
1-17:板倉隠岐守重常領地
宛行状
寛文9年(1669)
高梁市歴史美術館所蔵資料
[1-17]
 5万石の大名である板倉家の伊勢国鈴鹿・河曲・三重郡のうち、亀山領85ヵ村4万9千石と武蔵国の4ヵ村千石の領地宛行状あてがいじょう。本来、亀山領は城付き86ヵ村5万石であるが、板倉家が武蔵国にあった先祖代々の領地4ヵ村千石分を幕府に願い出てそのまま領地として継承したため、代わりに川嶋村千石分が亀山領から外され、亀山城付き85ヵ村の領地が宛行あてがわれた。

[1-18]
1-18:板倉隠岐守重常領地
宛行状
元禄12年(1699)
高梁市歴史美術館所蔵資料
[1-18]
 板倉重冬への領地宛行状あてがいじょう。鈴鹿郡72ヵ村・河曲郡8ヵ村・三重郡5ヵ村で5万石と記載され、武蔵国の先祖からの領地4ヵ村千石は含まれていない。また、合計85ヵ村ではあるが、「板倉家系譜外伝」に書き写された領地目録をみると弓削村と岡田村が弓削岡田村として1ヵ村に扱われているので、実際は86ヵ村である。

[1-19]
1-19:板倉近江守重治領地
宛行状
元禄12年(1699)
高梁市歴史美術館所蔵資料
[1-19]
 板倉重治への領地宛行状。鈴鹿郡75ヵ村・河曲郡8ヵ村・三重郡5ヵ村、合計88ヵ村5万石の領地となっている。「板倉家系譜外伝」に写された領地目録をみると、弓削岡田村は1ヵ村として扱われ、さらに通常村数に数えない枝郷の奈良新田・京新田・小谷新田が数えられていることがわかり、足して引けばやはり亀山城付き86ヵ村5万石の領地が宛がわれている。

[1-20]
1-20:円福寺経堂 棟札
江戸時代(18世紀前期)
亀山市(まちなみ文化財室)
所蔵資料
[1-20]
 日照山円福寺は、亀山市住山町に所在する黄檗宗おうばくしゅう寺院である。往古は住山寺と称していたが、正徳6年(1716)に寺名を円福寺に改めた。現在地に伽藍が整えられるのは延宝頃(1673~1681)のことである。経堂は、江戸寛永寺の錦袋円法印了応の施料により「鉄眼版一切経」(市指定有形文化財)の寄進をうけ、これを納めるために元禄14年(1701)に建立され、その後、享保19年(1734)に再建されたと考えられる。
 棟札には、
  「右経堂者
   享保十九甲寅秋九月落成
   亀山城主板倉防州大守勝澄公建立之
   奉請侍大士 日照山圓福代四代主竜山浄高記之」
とあり、亀山城主板倉勝澄の寄進によると考えられる。

[1-21]
[1-21]
 亀山城主板倉重常の室筆子の自筆と伝わる和歌。これがみつかった照光寺では、板倉筆子の位牌も祀られており、この和歌の文頭にもあるように、元禄2年(1689)の秋に、板倉筆子の法号である「照光院」から寺号としたと伝わっている。
1-21:板倉筆子和歌  江戸時代(17世紀後期)
照光寺所蔵

[1-22]
[1-22]
 亀山城主板倉重常の家老大石三右衛門と板倉杢右衛門から池山村の庄屋・百姓へ宛てられた新田証文。野登寺の費用で開発した新田にかかる年貢の1割を野登寺へ上納するということが書かれている。城主板倉家と野登寺の関係がわかる資料である。
1-22:新田証文之事 延宝7年(1679)
野登寺所蔵資料

[1-23]
[1-23]
 板倉家が亀山城主の頃、照光寺の付近で曲がっていた竜川をまっすぐに直す改修工事をしたことが書かれている。

1-23:柴田厚二郎編纂「鈴椋両川改修者生田理左
衛門之伝記」 昭和時代(20世紀前期)
館蔵林・徳森家文書23-4

[1-24]
[1-24]
 橋爪家先祖の休意が亀山城主板倉家から拝領した鳩の杖。休意は一代で身を興し、板倉家の鳥羽から亀山への所替の費用の他、様々な御用金を用立てたことから、以後、橋爪家と板倉家は深い関わりを持った。
1-24:扶老杖ふろうづえ 江戸時代(18世紀前期)
橋爪家所蔵資料

[1-25]
1-25:九曜巴紋入り裃
江戸時代
橋爪家所蔵資料
[1-25]
扶老杖ふろうづえと同じく橋爪家の先祖が板倉家から拝領した裃。板倉家の家紋である九曜巴くようどもえ紋が入っている(袴は腰板部分に紋が入る)。橋爪家は、板倉家が備中松山に転封となった後も、参勤交代などでこの地域を通過する折りには、必ず挨拶のために板倉家当主に目通りすることが通例であった。