埴輪
粘土でできており、古墳の周りに立てられました。古墳を囲むことで人々の立ち入りを防いだと考えられています。埴輪には、筒の形の円筒埴輪と色々な形をした形象埴輪があります。人や動物、家、船などの形が見つかっています。色々な形を粘土で作りますが、共通しているのは、穴(透かし孔)があけられていることです。穴をあけた理由は、①様々なものをのせる台に穴があいており、それを引き継いだから、②埴輪を焼く時に火が通りやすいから、といったことが考えられています。
43.鰭付朝顔形円筒埴輪
能褒野王塚古墳〈田村町・川崎小学校区〉 1600年前(4世紀末〜5世紀初) 亀山市歴史博物館寄託(能褒野神社資料)
市内で一番古く、大きい埴輪です。残っている部分の高さ93.5cm、筒の最も太い部分は径33.4cmです。形は、筒とその上に乗る壷の部分が残っています。壷の上に乗る朝顔の形の部分と、筒の横にあった鰭という長方形の粘土板の飾りは、今は残っていません。
次に色に注目してみましょう。まずは真ん中に残る黒い色が目立ちます。これは、埴輪を焼く時についたコゲの色です。もう一色あります。赤色!外側に土の茶色とは別に赤い色が見えます。全体についていますから、元々この埴輪は赤色に塗られていたようです。赤色は魔除けの色とも考えられていますので、墓を囲む埴輪に塗ったのではないでしょうか。
最後に作り方を見てみます。表面には縦方向にヘラで整えた跡があります。表面を整えた後、粘土紐を巻いて飾っています。
この埴輪の特徴は、今は残っていない「鰭」にあります。鰭が付いた埴輪は、今の奈良県北部にいた王が全国に力を広げていく中で、地元の王に教えた形と考えられています。つまり、この埴輪があった能褒野王塚古墳に葬られた王は、地域の王として中央の王と深い関係にあったのだろうと想像されます。
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鰭付朝顔形円筒埴輪(能褒野王塚古墳)
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44.能褒野王塚古墳模型
亀山市歴史博物館所蔵
鰭付朝顔形円筒埴輪と円筒埴輪で囲まれた能褒野王塚古墳の150分の1の模型です。とても小さいですが、さきほど紹介しました鰭付朝顔形円筒埴輪もあります。埴輪はこのように古墳全体の周りを囲むように飾られていたと考えられています。能褒野王塚古墳は全長90mですから、たくさんの埴輪が必要だったことになります。
また、模型では丸い部分(後円部)は2段としていますが、最新の調査では、2〜3段であるということが分かりました。
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能褒野王塚古墳模型
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45.円筒埴輪
柴戸1号墳〈川合町・井田川小学校区〉 1500年前(6世紀前半) まちなみ文化財室所蔵
筒の形の埴輪です。上の方に注目してください。円の一部が交わったような不思議な形の文様が刻まれています。埴輪を作った職人がサインをしたのではないでしょうか。次に表面を見てみると、斜め方向にヘラで整えた跡が残っています。
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円筒埴輪(柴戸1号墳)
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46.楕円筒埴輪
山下古墳〈山下町・神辺小学校区〉 1500年前(6世紀前半) 亀山高等学校所蔵
形が少し変わっています。筒の形なのですが、潰れていませんか?楕円形をしています。埴輪を作る時に潰れたのでしょうか?しかし、粘土に割れたところがないため、元々楕円形に作られたのだろうと考えられます。
次に色。今までと色が違います。窯で焼かれたようで、高温で焼いたことで堅い仕上がりとなっています。表面には横方向、上の方は斜め方向にヘラで整えた跡も残っています。
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楕円筒埴輪(山下古墳)
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47.人物埴輪
木下古墳〈木下町・神辺小学校区〉 1500年前(5世紀末〜6世紀中頃) 三重大学所蔵
男性の形をした埴輪です。上から順番に見ていきましょう。頭は平らになっています。額に鉢巻のようなものを巻き、額と顎の文様は入れ墨を表しています。服は立ち襟で左前にして着て、腰に帯をしています。手は肘まで籠手をはめています。両手首と両脇の下には透かし孔があけられています。木下古墳からは馬形埴輪が確認されていますので、馬を引く馬子をイメージして作られているかもしれません。
なお、本来は、衣服の下に脚や円筒部が付きますが、この埴輪では残っていません。復原された部分の高さは47cmほどです。
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人物埴輪(木下古墳)
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