料理を終えると、食器に盛りつけます。盛りつけた後は、大きな器からとりわけ、手づかみで食事をしていました。水や酒といった液体も、同じように土器の容器に入れて提供されます。
また、古墳から出土するものには、食器の形の土器もあります。墓での祀りには食料を捧げることもありました。
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高坏
皿のような器を台にのせた形の食器です。盛りつけに使われました。台の上が皿のように浅い器であれば、ごはんのような固体を盛りつけ、椀のように深い器になっていれば液体を入れたと考えられます。坏の深さで盛りつけるものが変わりました。
30.土師器高坏〔食器〕
地蔵僧遺跡〈川崎町・川崎小学校区〉 1900〜1800年前(2世紀〜3世紀) まちなみ文化財室所蔵
脚がついた食器です。ここに料理した食べ物を盛りつけました。浅い皿のようになっていることから、甕で炊いたり甑で蒸した米、つまりご飯が盛りつけられたと考えられます。
表面は、木のヘラで整えたあと、磨きをかけてなめらかに仕上げています。
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土師器高坏(地蔵僧遺跡)
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31.土師器高坏 〔食器(液体)〕
東樺野遺跡〈菅内町・亀山東小学校区〉 1500年前(6世紀) まちなみ文化財室所蔵
脚つきの食器です。器の形に注目してみると、かなり深さがあります。酒などの液体を入れたのではないかと考えられます。
表面に石の粒がたくさん見えていますので、あまり良い粘土で作られなかったようです。
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土師器高坏〈東樺野遺跡〉
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坏
皿のような形の食器。取り分け皿のように使ったのだと考えられます。1300年くらい前になると食事に箸を使うようになります。ここで紹介している時代には、坏に盛りつけた後は、手づかみで食べていたようです。
32.土師器坏身 〔食器〕
沢遺跡〈山下町・神辺小学校区〉 1500年前(6世紀前半) まちなみ文化財室所蔵
土でできた食器です。高坏に盛りつけられたご飯や甕で煮たスープを取り分けました。
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土師器坏身〈沢遺跡〉
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33.須恵器坏身・蓋 〔食器〕
柴戸遺跡〈栄町と川合町・亀山東と井田川小学校区〉 1550年前(5世紀半ば) まちなみ文化財室所蔵
とても堅いんです!窯で焼くという新しい技術が朝鮮半島から伝わりました。その技術によって高温で焼くことができ、堅い器になりました。これを「須恵器」と呼んでいます。
表面をみるとロクロの跡が残っていますので、ロクロを使って形を整えて仕上げたこともわかりました。この坏は、蓋とセットになっています。
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34.須恵器𤭯 〔食器(液体用)〕
沢遺跡〈山下町・神辺小学校区〉 1500年前(6世紀前半) まちなみ文化財室所蔵
形に注目してみましょう。上に大きな口、下にも小さな口があります。これは、上から注ぎ入れ、下の穴から注ぎます。注ぐ時には、竹などを下の穴にさして使いました。液体専用の食器です。
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須恵器𤭯〈沢遺跡〉
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古墳で見つかった高坏
古墳という昔の王の墓からも、食器が見つかります。王が亡くなった後、墓に葬るのですが、その時、さまざまなお祀りをしていました。食べ物を土器に盛りつけ捧げることもありました。私たちがお墓にお供えをする、ということと同じです。
さて、お祀りに使う器。これまで紹介してきた器と同じ形をしています。では、どうやって見分けるのでしょう?それは、古墳から見つかること、繰り返し使った跡が残っていないこと、がポイントです。
35.土師器高坏〔食器〕
大垣内古墳〈山下町・神辺小学校区〉(市指定文化財) 1500年前(6世紀初め) 亀山市歴史博物館所蔵
椀の形の土器に脚がついています。高さ11.7cm、口の径14.8cmの大きさです。鉄のヨロイ(横矧板鋲留短甲)が見つかった大垣内古墳から一緒に発掘されました。そのため、墓でのお祀りに用いられたものだろうと考えられます。
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土師器高坏(大垣内古墳)
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36.須恵器高坏〔食器〕
釣鐘山古墳〈川合町・井田川小学校区〉 1500年前(6世紀前半) まちなみ文化財室所蔵
窯で堅く焼いた脚つきの食器です。高さ12.2cm、器の径11.6cm。器は浅く作られています。脚には長方形の孔が3か所あき、裾には段が作られています。
こちらも古墳の石の棺の中から見つかりましたので、墓でのお祀り用に使われたと考えられます。
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須恵器高坏(釣鐘山古墳)
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37.魏志(東夷伝倭人条)〔市指定文化財〕
400年前(明・万暦年間(1573〜1615)) 亀山市歴史博物館所蔵(明倫館文庫)
卑弥呼の時代(3世紀初め)のようすが、中国の歴史書に書かれています。その頃は、稲を植え、温暖な気候のため一年中生野菜を食べ、料理を高坏に盛りつけて手で食べた、と紹介されています。
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魏志(東夷伝倭人条)〔市指定文化財〕
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38.土師器皿〔小皿〕
御幣立遺跡〈川崎町・川崎小学校区〉 1300年前(8世紀) まちなみ文化財室所蔵
底をよ〜く見てみてください。「天」という文字が刻まれています。もしかしたら、使っていた人の名前やその人が働いていた職場の名前の一部かもしれません。自分用の皿だと言いたかったのでしょうか。
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弥生時代の食事復元模型(三重県埋蔵文化財センター所蔵)
米作りが広がると、毎日、どのような食事をしていたのでしょうか?三重県内で見つかった甕(調理器具)と高坏(食器)に復元したものです。
高坏には、炊いたご飯が盛りつけられています。この米は「赤米」。稲の古い品種で、日本に伝わった稲は赤米である可能性が高いと考えられています。
甕には、煮物が入っています。具はハマグリとイイダコです。亀山市は海がないので、川や野山で採れたものを煮て食べていたのではないでしょうか。
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弥生時代の食事復元模型(三重県埋蔵文化財センター所蔵)
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