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凡例・自由研究ノート等土で作る煮る・炊く蒸す盛りつける蓄える祀る土の利用昔と今のくらしさいごに

4.盛り付ける

 料理りょうりえると、食器しょっきりつけます。りつけたあとは、おおきなうつわからとりわけ、づかみで食事しょくじをしていました。みずさけといった液体えきたいも、おなじように土器どき容器ようきれて提供ていきょうされます。
 また、古墳こふんから出土しゅつどするものには、食器しょっきかたち土器どきもあります。はかでのまつりには食料しょくりょうささげることもありました。

高坏たかつき

 さらのようなうつわだいにのせたかたち食器しょっきです。りつけに使つかわれました。だいうえさらのようにあさうつわであれば、ごはんのような固体こたいりつけ、わんのようにふかうつわになっていれば液体えきたいれたとかんがえられます。つきふかさでりつけるものがわりました。


30.土師器はじき高坏たかつき食器しょっき
   地蔵僧遺跡じぞうそういせき川崎町かわさきちょう川崎小学校区かわさきしょうがっこうく〉 1900〜1800年前ねんまえ(2世紀せいき〜3世紀せいき) まちなみ文化財室ぶんかざいしつ所蔵しょぞう
 あしがついた食器しょっきです。ここに料理りょうりしたものりつけました。あささらのようになっていることから、かめいたりこしきしたこめ、つまりごはんりつけられたとかんがえられます。
 表面ひょうめんは、のヘラでととのえたあと、みがきをかけてなめらかに仕上しあげています。
土師器高坏(地蔵僧遺跡)
土師器はじき高坏たかつき地蔵僧遺跡じぞうそういせき



31.土師器はじき高坏たかつき 〔食器しょっき液体えきたい)〕
   東樺野遺跡ひがしかばのいせき菅内町すがうちちょう亀山東小学校区かめやまひがししょうがっこうく〉 1500年前ねんまえ(6世紀せいき) まちなみ文化財室ぶんかざいしつ所蔵しょぞう
 あしつきの食器しょっきです。うつわかたち注目ちゅうもくしてみると、かなりふかさがあります。さけなどの液体えきたいれたのではないかとかんがえられます。
 表面ひょうめんいしつぶがたくさんえていますので、あまり粘土ねんどつくられなかったようです。

土師器はじき高坏たかつき東樺野遺跡ひがしかばのいせき



つき

 さらのようなかたち食器しょっきざらのように使つかったのだとかんがえられます。1300ねんくらいまえになると食事しょくじはし使つかうようになります。ここで紹介しょうかいしている時代じだいには、つきりつけたあとは、づかみでべていたようです。


32.土師器はじき坏身つきみ 〔食器しょっき
   沢遺跡さわいせき山下町やましたちょう神辺小学校区かんべしょうがっこうく〉 1500年前ねんまえ(6世紀せいき前半ぜんはん) まちなみ文化財室ぶんかざいしつ所蔵しょぞう
 つちでできた食器しょっきです。高坏たかつきりつけられたごはんかめたスープをけました。


土師器はじき坏身つきみ沢遺跡さわいせき



33.須恵器すえき坏身つきみふた 〔食器しょっき
   柴戸遺跡しばといせき栄町さかえまち川合町かわいちょう亀山東かめやまひがし井田川小学校区いだがわしょうがっこうく〉 1550年前ねんまえ(5世紀せいきなかば) まちなみ文化財室ぶんかざいしつ所蔵しょぞう
 とてもかたいんです!かまくというあたらしい技術ぎじゅつ朝鮮半島ちょうせんはんとうからつたわりました。その技術ぎじゅつによって高温こうおんくことができ、かたうつわになりました。これを「須恵器すえき」とんでいます。
 表面ひょうめんをみるとロクロのあとのこっていますので、ロクロを使つかってかたちととのえて仕上しあげたこともわかりました。このつきは、ふたとセットになっています。


須恵器すえき坏身つきみ柴戸遺跡しばといせき


須恵器すえきふた柴戸遺跡しばといせき

須恵器すえき坏身つきみふた柴戸遺跡しばといせき




34.須恵器すえき𤭯はそう 〔食器しょっき液体用えきたいよう)〕
   沢遺跡さわいせき山下町やましたちょう神辺小学校区かんべしょうがっこうく〉 1500年前ねんまえ(6世紀せいき前半ぜんはん) まちなみ文化財室ぶんかざいしつ所蔵しょぞう
 かたち注目ちゅうもくしてみましょう。うえおおきなくちしたにもちいさなくちがあります。これは、うえからそそれ、したあなからそそぎます。そそときには、たけなどをしたあなにさして使つかいました。液体えきたい専用せんよう食器しょっきです。

須恵器すえき𤭯はそう沢遺跡さわいせき


古墳こふんつかった高坏たかつき

 古墳こふんというむかしおうはかからも、食器しょっきつかります。おうくなったあとはかほうむるのですが、そのとき、さまざまなおまつりをしていました。もの土器どきりつけささげることもありました。わたしたちがおはかにおそなえをする、ということとおなじです。
 さて、おまつりに使つかうつわ。これまで紹介しょうかいしてきたうつわおなかたちをしています。では、どうやって見分みわけるのでしょう?それは、古墳こふんからつかること、かえ使つかったあとのこっていないこと、がポイントです。


35.土師器はじき高坏たかつき食器しょっき
   大垣内古墳おおがいとこふん山下町やましたちょう神辺小学校区かんべしょうがっこうく〉(市指定文化財ししていぶんかざい) 1500年前ねんまえ(6世紀初せいきはじめ) 亀山市歴史博物館かめやましれきしはくぶつかん所蔵しょぞう
 わんかたち土器どきあしがついています。たかさ11.7cm、くちけい14.8cmのおおきさです。てつのヨロイ(横矧板鋲留短甲よこはぎいたびょうどめたんこう)がつかった大垣内古墳おおがいとこふんから一緒いっしょ発掘はっくつされました。そのため、はかでのおまつりにもちいられたものだろうとかんがえられます。
土師器高坏(大垣内古墳)
土師器はじき高坏たかつき大垣内古墳おおがいとこふん



36.須恵器すえき高坏たかつき食器しょっき
   釣鐘山古墳つりがねやまこふん川合町かわいちょう井田川小学校区いだがわしょうがっこうく〉 1500年前ねんまえ(6世紀せいき前半ぜんはん) まちなみ文化財室ぶんかざいしつ所蔵しょぞう
 かまかたいたあしつきの食器しょっきです。たかさ12.2cm、うつわけい11.6cm。うつわあさつくられています。あしには長方形ちょうほうけいあなが3かしょあき、すそにはだんつくられています。
 こちらも古墳こふんいしひつぎなかからつかりましたので、はかでのおまつよう使つかわれたとかんがえられます。
須恵器高坏(釣鐘山古墳)
須恵器すえき高坏たかつき釣鐘山古墳つりがねやまこふん




37.魏志ぎし東夷伝倭人条とういでんわじんじょう)〔市指定文化財ししていぶんかざい
   400年前ねんまえみん万暦年間まんれきねんかん(1573〜1615)) 亀山市歴史博物館かめやましれきしはくぶつかん所蔵しょぞう明倫館文庫めいりんかんぶんこ
 卑弥呼ひみこ時代じだい(3世紀初せいきはじめ)のようすが、中国ちゅうごく歴史書れきししょかれています。そのころは、いねえ、温暖おんだん気候きこうのため一年中いちねんじゅう生野菜なまやさいべ、料理りょうり高坏たかつきりつけてべた、と紹介しょうかいされています。
魏志(東夷伝倭人条)〔市指定文化財〕
魏志ぎし東夷伝倭人条とういでんわじんじょう)〔市指定文化財ししていぶんかざい



38.土師器はじきさら小皿こざら
   御幣立遺跡おんべだちいせき川崎町かわさきちょう川崎小学校区かわさきしょうがっこうく〉 1300年前ねんまえ(8世紀せいき) まちなみ文化財室ぶんかざいしつ所蔵しょぞう
 そこをよ〜くてみてください。「てん」という文字もじきざまれています。もしかしたら、使つかっていたひと名前なまえやそのひとはたらいていた職場しょくば名前なまえ一部いちぶかもしれません。自分用じぶんようさらだといたかったのでしょうか。
土師器皿(御幣立遺跡) 土師器皿(御幣立遺跡) 土師器皿(御幣立遺跡)
土師器はじきさら御幣立遺跡おんべだちいせき



弥生時代やよいじだい食事しょくじ復元模型ふくげんもけい三重県みえけん埋蔵文化財まいぞうぶんかざいセンター所蔵しょぞう
 米作こめづくりがひろがると、毎日まいにち、どのような食事しょくじをしていたのでしょうか?三重県内みえけんないつかったかめ調理器具ちょうりきぐ)と高坏たかつき食器しょっき)に復元ふくげんしたものです。
 高坏たかつきには、いたごはんりつけられています。このこめは「赤米あかまい」。いねふる品種ひんしゅで、日本にほんつたわったいね赤米あかまいである可能性かのうせいたかいとかんがえられています。
 かめには、煮物にものはいっています。はハマグリとイイダコです。亀山市かめやましうみがないので、かわ野山のやまれたものをべていたのではないでしょうか。
弥生時代の食事復元模型
弥生時代やよいじだい食事しょくじ復元模型ふくげんもけい三重県みえけん埋蔵文化財まいぞうぶんかざいセンター所蔵しょぞう




   

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