土器を使った料理法には、”蒸す”もあります。甕で湯を沸かし、その上に蒸し器となる「甑」を置いて蒸していました。主に、米を蒸すために使っていたようです。
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24.長胴甕〔湯沸かし鍋〕
地蔵僧遺跡〈川崎町・川崎小学校区〉 1300年前(8世紀) まちなみ文化財室所蔵
2コーナーでも甕を紹介しましたが、この甕は形が変化しています。とても胴が長く、今までの甕より容量が大きくなりました。この道具ができたことで、湯をたくさんわかし、上に蒸し器を置くことで、”蒸す”という調理ができるようになりました。
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長胴甕(地蔵僧遺跡)
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25.甑 〔蒸し器〕
柴戸遺跡〈栄町と川合町・亀山東と井田川小学校区〉 1900〜1800年前(2〜3世紀) まちなみ文化財室所蔵
底に注目してください。なんと穴があいています!蒸し器として使うための穴です。
湯をわかした甕の上に置き、その蒸気で中の食材に火をとおしました。
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甑〈柴戸遺跡〉
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26.甑 〔蒸し器〕
柴戸遺跡〈栄町と川合町・亀山東と井田川小学校区〉 1900〜1800年前(2〜3世紀) まちなみ文化財室所蔵
蒸し器として使うために、底に蒸気をとおす穴があいています。ただ、穴の外側だけこげています。この甑を焼く時にこげたのだと考えられます。
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甑〈柴戸遺跡〉
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27.甑 〔蒸し器〕
大鼻遺跡〈太岡寺町と布気町・神辺小学校区〉 1500年前(5世紀末〜6世紀初) 三重県埋蔵文化財センター所蔵
甑の完全な形です。湯をわかした甕や鍋の上において、底の穴から蒸気を取り入れ、中に入れた食材を蒸します。蒸し器として使うと熱くなるため、持ち運びのための把手がついています。
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甑〈大鼻遺跡〉
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蒸し米を食べる
『日本書紀』巻25 大化2年(646)3月甲申(22)条
亀山市歴史博物館 田上家資料
「人々は、甑を借りて飯を炊くときには・・・」という内容が書いてあり、米を甑で蒸して食べていたことが紹介されています。
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『日本書紀』巻25 大化2年(646)3月甲申(22)条
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『万葉集正訓』巻5 貧窮問答歌
亀山市歴史博物館 山脇家資料
山上憶良が、天平3年(731)〜5年(733)頃に詠んだと考えられている歌です。歌では、貧しい農民のようすが描かれています。その一部分に「竈には火の気がなく、甑には蜘蛛の巣がはり、飯を炊くことも忘れてしまった」とあります。つまり、1300年前の農民たちは、甑で米を蒸し、飯として食べていたことになります。
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『万葉集正訓』巻5 貧窮問答歌
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記録には、米を蒸して食べたと残されています。ですが、亀山市内の発掘調査では、米を蒸すための甑はあまり確認できていません。おそらく亀山市内に住んでいた人たちは、蒸した米を食べるよりも、甕で炊いて食べていたのではないでしょうか。
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豆知識
炒る
おかずの調理には、“炒る”ことも行われました。“炒る”には、現在のフライパンにあたるものが用いられています。昔と今の道具の形を比べてみると、ほとんど変わっていません。
28.焙烙
亀山城跡〈東丸町・亀山西小学校区〉 500年前(16世紀) まちなみ文化財室所蔵
29.鉄製焙烙
80年前(20世紀) 亀山市歴史博物館所蔵 臼井家資料
土ではなく、鉄でできています。近年まで使われていました。底にススがついていますので、直接、火にかけて使っていたようです。
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鉄製焙烙(亀山市歴史博物館所蔵〈臼井家資料〉)
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