関本陣・問屋の家~川北家~
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関宿本陣・問屋の家~川北家~



はじめに

 江戸時代の関宿で本陣と宿継ぎ問屋を勤めていた歴史を持つ川北家には、四五〇点余りの古文書・古記録がいまも伝えられています。亀山市歴史博物館では、平成二十二年に、これらの古文書群の調査をさせていただきました。
 古文書群がもつ内容は、(1)川北家の歴史、(2)本陣・問屋としての川北家の役割、(3)関宿の歴史というように三つに大きくわけることができます。
 そこで、今回の先人との対話では、出品点数はわずかですが、(1)~(3)に注目することで、江戸時代に関宿の本陣・問屋を勤めていた川北家をたずねます。
 最後になりましたが、御所蔵古文書の展示と出品に対し、御理解と御協力をいただきました川北家の皆様に厚く御礼申上げます。


展示品目録

1.十一代政辰が文政十二年に記した「川北家之覚書」(川北家所蔵文書2-21

 これは、十一代川北家の当主、久左衛門政辰が記した川北家の由緒です。前半は関宿へ移ってきた川北家の始まりや、本陣の大きさ、関宿内の火事からの再建、書院の庭や本陣に掲げられた額の由来などが記されています。
 後半は、元祖から政辰を含め十二代までの当主と妻、分家の通称と実名、戒名、命日などが系図で書かれています。

2.川北家家紋 三蓋松 雛形(川北家所蔵文書3-142

 川北家の家紋は、三蓋松です。関町中町の延命寺に移築されている川北本陣の門には、三蓋松紋を据えた鬼瓦をみることができます。

3.川北政辰による教訓書(川北家所蔵文書3-171

 川北家所蔵文書群には、出品史料1の他にも複数の由緒書や系図が伝えられています。その中には、「菅原姓川北家系図」(川北家所蔵文書3-145)と記載されているものもあり、菅原姓を起源としています。
 この川北政辰による教訓書は、先人の抜粋か創作か、いまのところ不詳ですが、奥書によれば、政辰自身のための教訓であることが書かれています。そして、「川北主人政辰謹書」という署名と「菅原政供」という朱印があります。

4.東海道伊勢国鈴鹿郡関駅御本陣川北久左衛門家絵図(川北家所蔵文書2-8-9

 これは、川北本陣の平面図の刷り物です。
 川北本陣は、関町中町に建っていました。関まちなみ資料館より少し西に進むと、「川北本陣跡」の石柱が建てられています。

5.一年間の勤めと心得を記した「勤方并家事認置心得書」(川北家所蔵文書2-20

 これは、文政六年(1823)十一月に川北政辰が記したものです。ただし、このときは「久之字・左衛門」が「差支」のために「休右衛門政辰」となっています。
 内容は、一年間の勤めについて、あらましの心得です。
 年頭挨拶のための亀山城への登城に必要なものや、亀山宿の本陣樋口家との申し合わせ、藤堂家が津へ戻って来たら、関宿の名物の一つ火縄を持参して藤堂家へ挨拶にいくことなどが記されています。
 これら一年間の勤めでは、その都度の礼状を出すための雛形も記されています。これによれば、記載する肩書きが「関町本陣問屋」「関三町役人共」「関町御本陣川北久左衛門」「関駅川北休左衛門」「関町川北休右衛門」と複数あります。
 見開きは、亀山城主が在城中の正月における登城についてのあらましです。

6.亀山藩から関宿問屋年寄へ出された心懸けの文書(川北家所蔵文書3-4

 これは、寛文七年(1667)十二月に、亀山藩から出された関宿問屋・年寄が心懸けるべき内容の文書です。
 (1)法度(法令)を守ること (2)博奕の禁止 (3)結婚の祝いは軽くすること、大酒、音信贈答無用のこと (4)結婚祝いの「水あひせ」(水あびせ)も祝儀までに軽くすること (5)伊勢参宮・富士参りに「をくり酒」「むかひ」など一切しないこと が心懸ける内容として上げられています。

7.町中の儀について、万事精を出し骨を折っているので年貢米、毎年五石免除する証文(川北家所蔵文書3-3-1

 川北家が「町中之儀」について、万事精を出し骨を折っていることから、亀山藩が、寛文九年(1669)から毎年五石の年貢米を免除することを伝えた証文です。
 宛名の肩書きが「関問屋」とあることから、「町中之儀」とは、本陣川北家の勤めではなく、問屋川北家の勤めに対して出されものとみることができます。

8.御由緒之覚(川北家所蔵文書3-49

 この川北家の由緒書は、十三代川北久左衛門が記した物です。出品史料1と重複する内容もありますが、ここでは、関宿の始まりから寛永十三年(1636)に亀山城主が本多俊次になり、関が徳川家康の領地から徳川幕府領、そして亀山領となるまでの動きを記している部分を見開いています。
 また〈「御由緒之覚」からみた関宿の歴史パネル〉に内容を表しています。

9.宝暦六年二月に関中町が出した願書の控え(川北家所蔵文書3-35

 これは、宝暦六年(1678)に、関中町の町役人が、亀山城主板倉家の奉行に出した願書の控えです。奉行へ出している願いの内容は、 (1)関中町が段々困窮しており、特に旅籠屋が格別に困窮していること (2)各家が大きく破損しているので、伝馬役や公用の宿が次第に勤められなくなってきていること (3)潰家ができると公用の宿が勤められず、困ったことになること などの現状があるので、救済を願うものです。
 この頃の関宿のようすを知ることができます。

10.懐中旧記(川北家所蔵文書3-137

 いつのものか年代は不明ですが、川北家の何代目かが書き綴ったものです。内容は、関宿に関する統計や地勢、また延宝五年(1677)から享和三年(1803)までの年代順の出来事の記載など、情報量はとても豊富です。
 見開いているのは、年代順の出来事の記載部分です。この中の明和五年(1768)の記事では、亀山領八十三ヵ村による騒動のこと(明和の一揆)が記されています。
  明和五戊子年九月十三日 亀山領郷中百姓、広瀬野江
  相集、騒動致し、頭取伊舟村庄屋長右衛門・小岐須村
  加兵衛・田村清左衛門御吟味之上入、其後御仕置被
  仰付候、
  【大意】明和五年(1768)九月十三日、亀山領内の村
  中の百姓が広瀬野に集まり騒動しました。リーダーの
  伊舟村(鈴鹿市)の庄屋長右衛門・小岐須村(鈴鹿市)
  の加兵衛・田村(田村町)の清左衛門は取調の上、
  に入り、懲罰を言いつけられました。

川北家の歴史

(1)川北家の歴史

 江戸時代、関宿で本陣・問屋を勤めていました川北家の歴史を、ここでは、川北政辰が文政十二年(一八二九)に作成した「川北家之覚書」(出品史料1)、川北家家紋(出品史料2)、川北政辰による教訓書(出品史料3)でたずねています。

  川北家の由緒~十一代川北政辰が、文政十二年四月に作成した「川北家之覚書」から~

 川北家は、元祖より政辰で十一代目です。代々「御本陣問屋兼帯」で勤めています。川北家の元祖は、川北六郎、後に久左衛門政廣といいます。
 本国は「伊勢国安芸郡」で、「天正年中」(一五七三~一五九二)、織田信長が死去した後、浪人して「鈴鹿の関地蔵」(江戸時代の関宿)へ移ってきました。
 関宿の本陣と問屋を勤めたのは、「慶長年中」(一五九二~一六一五)より徳川家康の代官として「元北畠備後守様、後ニ姓名御改め篠山理兵衛景春様」が、「鈴鹿の関」(江戸時代の関宿)を治めていたとき、「因縁」もあって世話になりました。
 その時に諸侯の宿にしたり、関宿の人馬の継ぎ立てを滞りなく勤めました。
 この勤めぶりによって、慶長六年(一六〇一)正月に関地蔵(江戸時代の関宿)宛の駒引の朱印状をもらっています。
 ※「川北家之覚」(出品史料1)の文意を損なわないように訳しました。かぎかっこは原文通りです。
 この「川北家之覚」から、川北家では、本陣と宿継問屋は「兼帯」という認識を持っています。つまり、江戸時代の宿場の仕組みに注目すると、本陣と問屋の基本は、それぞれ独立した機能であったことが改めてわかります。
 亀山城主が管轄する亀山宿内で、川北家と同じ「本陣問屋兼帯」は、東町の樋口家です。また、本陣だけを営むのは、関宿の伊藤本陣、問屋だけを営むのは、亀山宿内西町の若林家でした。
 慶長六年(一六〇一)、徳川家康が伝馬の制度を定めました。駒引の朱印状は、家康が発行する朱印がなければ、伝馬を出してはいけないという文言が書かれた文書です。
 つまり、徳川家康から、川北家に駒引の朱印状が渡されるということは、家康が認めた宿継問屋になるということです。
 なお、駒引の朱印状は、現在も川北家で伝えられています。

(2)本陣・問屋としての川北家の役割

 (1)でうかがったように、川北家は、「本陣問屋兼帯ニ而勤」めていました(川北家所蔵文書2-21)。
 これは、本陣と宿継問屋は一体の業務ではなく、二種類の業務を同時におこなっていたという意味です。
 では、川北家では、どのように本陣と問屋の二種類の業務を勤めていたのでしょうか。この点を出品史料4から7でたずねています。

(3)関宿の歴史

 出品史料8の記録に「関町之儀者永禄年中宿建始ニ御座候」とあるように、川北家で伝えられて来た古文書群には、川北家のことの他、関宿の歴史がうかがえる内容も同時に含まれています。
 出品史料8から10では、このような関宿の歴史がうかがえる史料を展示しています。



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