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古墳からわかること


まずは『星の王子さま』から・・・

 「人間みんなちがった目で星を見てるんだ。旅行する人の目から見ると、星は案内者なんだ。ちっぽけな光くらいにしか思っていない人もいる。学者の人たちのうちには、星をむずかしい問題にしている人もいる。ぼくのあった実業家なんかは、金貨だと思ってた。だけど、あいての星は、みんな、なんにもいわずにだまってる。」
  
「なに、なんでもないことだよ。心で見なくちや、ものごとはよく見えないってことさ。
 かんじんなことは、目にみえないんだよ。」
 サン=テグジュペリ 『星の王子さま』(内藤濯訳 :岩波書店、1962年)

 博物館では、「モノ」と対話をくりかえす中で、われわれの「まち」の歴史を少しずつひもといている。だから、文字でかかれた本や記録がない時代のこともわかる。3世紀の中ばすぎから7世紀後半、各地に「古墳」がつくられた時代の「亀山」は、文字による記録はなにもない。しかし、地中から掘り出された「モノ」との対話により、当時の社会がどのようなものであったのかの復元が進められている。もちろん、当時の「日本」における「亀山」も。そして、当時の東アジアにおける「亀山」も。


死者の部屋

 ここは死者の部屋だ。暗い地下の部屋に安置された死者を見たとき、古代の人々はそこに「黄泉(よみ)の国」を思っただろう。この部屋を石室とよぶ。特に横から内部に入ることができる石室を横穴式石室(よこあなしきせきしつ)と呼ぶ。

【写真1 井田川茶臼山古墳石室復元模型】

 石室の中におかれた、鉄の刀などの武具、丸い銅鏡、土器や石の棺は、人が目的を持って材料を加工し、石室に持ちこんだ死者のための「モノ」だ。ここからまとまって見つかった土器、武具や馬具は、それらは死者が生きているときに持っていたものか、死者のために用意されたものを供えられたものと考えられるのである。これらを副葬品とよぶ。
 石室自体は、丸みをおびた自然の石を積み上げて作られている。だが、よく見ればその石は、上に向かうほど部屋の中に向かって少しずつせりだしており、石室の上部を、まるでドームのようにしようと意識している。また、石室の平面は正方形に近い。このようなかたちは、兵庫県南部(播磨地域)との共通性をみることができる。そして何よりも井田川茶臼山古墳の石室は、伊勢湾西岸域に横穴式石室を用いた墓のかたちが導入された時期の古墳のひとつである。

【写真2 井田川茶臼山古墳石室(『亀山市史 考古編』)】


井田川茶臼山古墳が語ること

 井田川茶臼山古墳は、現在はみどり町となっている井田川丘陵の尾根の頂上、標高68.8mにあった古墳である。古墳の形は、前方後円墳であった可能性がある。内部は、横穴式石室で、西に口を開く。石室は、九州北部地域の石室からの影響を受けた横穴式石室で、東海地方では井田川茶臼山古墳以後、本格的に横穴式石室が取り入れられる。しかし、伊勢湾岸への導入期の横穴式石室は同質ではなく、北勢地方においては、やや側壁(そくへき)がふくらみをもった平面形をもった石室がその後も展開する。これらは、石室の導入者層の違いが石室のかたちにあらわれたものとみることができる。
 石室内には、2つの石棺(せっかん)と、木棺(もっかん)をおいた見られる平らな石があり、少なくとも3体の遺体が安置されたものと考えられる。
 副葬品は、石棺の内部におさめられたものと、棺の周囲におかれたものに分けられる。これら遺物のうち、土器は、6世紀前半を中心に6世紀中頃までのものと考えられ、井田川茶臼山古墳が6世紀前半につくられたことをもの語る。なお、これらの土器は、装飾付台付広口壷(そうしょくだいつきひろくちつぼ)など、東海地方の特徴が強く見られる。
 画文帯重列式神獣鏡(がもんたいじゅうれつしきしんじゅうきょう)、銀象嵌竜文捩環頭大刀(ぎんぞうがんりゅうもんねじりかんとたち)などは、ヤマト政権から各地域の有力な王にわけあたえられたとものと考えられるが、この時期のヤマト政権は、大王を中心とした有力な王の政治同盟から、大王を頂点とする強固な王権確立にむけて再編が進められていたとみられており、井田川茶臼山古墳の遺物もこの流れの中でとらえることができる。

【写真3 画文帯重列式神獣鏡(『亀山市史 考古編』)】

【写真4 銀象嵌竜文捩環頭大刀(『亀山市史 考古編』)】

 この時期、鈴鹿川流域においても、古くからこの地域に基盤をもつ勢力あるいは、ヤマト政権に急速に近づいた新勢力に、東日本の勢力と強い関係を持ちたいヤマト政権が、鈴鹿川流域の王に特別な待遇を与えたのであろうか。少なくとも、井田川茶臼山古墳のつくられた6世紀前半ごろに、東海地方において大きな転機があったことはまちがいない。
 【写真5 井田川茶臼山古墳画像データ(『亀山市史 考古編』)】

井田川茶臼山古墳は今

 みどり町にある「古墳公園」。そこに直径10m、高さ2mほどの小山があります。これが、みどり町をつくるための造成前に、井田川茶臼山古墳があったなごりです。
 昭和47年(1972)6月、三重県住宅供給公社により進められていた、住宅団地造成にともなって、井田川茶臼山古墳の発掘調査が行われました。調査が進むにつれ、井田川茶臼山古墳から三重県における戦後最大の発見といわれるほど、つぎつぎと重要な遺物が発見されました。調査を担当した三重県教育委員会は、三重県指定史跡に指定してその保護をはかるように、三重県住宅供給公社と話し合いを進めました。しかし、三重県住宅供給公社は、危険防止と多額の費用がかかることを理由に、石室をほかに移して保存したいとしてこれを拒否し、三重県教育委員会は、国史跡に仮指定するなどの検討もすすめ、話し合いは平行線をたどりました。
この協議のあいだ調査はいったん中断していましたが、10月に三重県住宅供給公社は、突然古墳を破壊して工事をすすめました。工事後、石室を移して保存するとして、石室の石を一ヵ所に積み上げて土をもって小山をつくりました。これが、現在、「古墳公園」にある「井田川茶臼山古墳」です。

【写真6 現在の古墳公園 (『亀山市史 考古編』)】

 井田川茶臼山古墳は、古墳のかたち、石室のつくりかたや、石棺の下など多くの点が解明されないまま調査途中で破壊されました。今、亀山の古代史をときあかすために、もう一度、井田川茶臼山古墳との対話をしようにも、古墳そのものがなくなってしまっては、なすすべがありません。「井田川茶臼山古墳」は、わたしたちが過去との対話を放棄した「負の遺産」として存在しています。

「井田川茶臼山古墳」の詳細については「亀山市史 考古編第5章」を参照ください。

なぜそこにある?

  井田川茶臼山古墳には、死者のための部屋があった。だが、山下町にあった大垣内古墳は、木の棺を直接埋めている。だから、ここに死者とともにおさめられた「モノ」は、ひとつに「まとまって」見つかった。しかし、よくみると掘り出された深さがわずかにちがう。ヨロイと刀は、ほとんど同じ高さだ。だが、ヤリとホコは、ヨロイなどより10cmほど高い位置にある。棺のあった場所は掘り返していないので、ヤリとホコは埋められた時点でヨロイなどの上にあったと見られる。おそらく、棺の中にヨロイと刀をおさめ、ヤリとホコは棺の上において土をかぶせたのだろう。やがて本の棺がくさって空洞の中に土とともにヤリとホコが落ち込んだのだろうか。

【写真7 大垣内古墳遺物出土状況(『亀山市史 考古編』)】

 ヨロイのさらに下からは、ノコギリやノミなどがばらばらで見つかっている。 しかも、これらはみな、最初からこわれている。掘り返していない以上、下にあるものが上にあるものより、先に埋められたものにちがいない。どうやら、棺を埋める前にわざとこわしたものを埋めたらしい。いずれにしろ、「モノ」のある場所を正確に観察するだけで、「モノ」は急におしゃべりになる。

大垣内古墳(おおがいと-こふん:山下町)

  山下町大垣内に所在する古墳で、沢遺跡から小さな谷をはさんだ東側に位置する。昭和47年(1972)に山下橋をかけるための道路工事で西半分を削りとられていた。昭和62年(1987)に行われた沢遺跡の発掘調査の際に、その断面から鉄刀の一部が発見されたため古墳であることが確認され、平成2年の山下橋架け替えにともない発掘調査が行われている。

【写真8 大垣内古墳の発掘調査(『亀山市史 考古編』)】

 復元径20m、高さ4m程の円墳で、墳丘上から出土した土器から6世紀初頭に築かれたものと考えられる。埋葬部分からは横矧板鋲留(よこはぎいたびょうどめ)短甲(たんこう)、鉄ヤリ、鉄ホコ、鉄刀といった武具類と、ノコギリ、ナイフといった工具が出土している。鉄ヤリにはその柄の漆が膜状に残っており、ヤリの柄に糸を巻いて作り出された菱形を重ねた文様が施されていたことが確認された。なお、これらの出土遺物は平成9年に亀山市指定文化財に指定されている。
 現在、山下橋親柱には古代武人像があしらわれているが、この像は大垣内古墳被葬者をイメージして原直矢氏が制作したものである。

【写真9 古代武人像(『亀山市史 考古編』)】

 【大垣内古墳画像データ(『亀山市史 考古編』】


能褒野王塚古墳

 「ヤマトタケルと能褒野王塚古墳」についてはこちらをご覧ください。
 
 「ヤマトタケル」の詳細については「亀山市史 通史編 古代中世」を、

 「能褒野王塚古墳」の詳細については「亀山市史 考古編第4章」を参照ください。



カタチ・大きさいろいろある

 亀山市周辺でもっとも多くの古墳がつくられた、5世紀後半から6世紀前半にかけて、井田川茶臼山古墳の付近に古墳がいくつもつくられている。だが、みんなかたちや大きさがちがう。井尻いじり古墳や鈴鹿市西ノ野1号(鈴鹿王塚)古墳は、ほとんど同じ大きさ、同じかたちをしている。

【写真10 井尻古墳空中写真】

【写真11 鈴鹿市西ノ野1号(鈴鹿王塚)古墳】
 これを、前方後円墳と呼んでいる。この時代の大王の墓と考えられる、大阪府高槻市今城塚いましろづか古墳と同じかたちだ。大王と同じかたちの古墳にほうむられた人物は、大王とどんな関係があるのだろうか。

【図1 5世紀後半から6世紀にかけての古墳模式図】
 柴戸1号古墳は、小さいだけではない。丸い部分が大きく、四角い部分が小さい。これを、帆立貝形ほたてがいがた古墳という。なぜ井尻古墳などと、かたちがちがうのか。四角い谷山古墳は、方墳、丸い釣鐘山つりがねやま古墳や柴戸2号古墳は円墳。鈴鹿市保子里ほこり1号古墳は、円墳を2つつなげたような双円墳そうえんぷんの可能性がある。これらのかたちのちがいは何をしめすのか。 王のちからは、古墳の大きさとかたち両方で表されているとみられる。だから、亀山の古墳は、古墳に葬られた人物のこの地域における立場を、そのまま表していると考えることができる。
 【柴戸古墳(遺跡)発掘調査画像(『亀山市史 考古編』)】


古墳はどこにある

 現在わかっている鈴鹿川・中の川流域の古墳のある場所をしめした図をみてみよう。

【図2 鈴鹿川・中の川流域古墳分布図】

 鈴鹿川・中の川流域にはたくさんの古墳があったことがわかる。すでにこわされた古墳もあるので、一体いくつの古墳があったのかわからない。ただ、図からいえることは、古墳のある場所にはいくつかのかたまりが見られること、古い古墳がある場所は限られていること。川の上流域と河口近く、亀山や鈴鹿市平田などの市街地には、ほとんど古墳がないこと。
 でも、市街地は古墳がたくさんあったものが、家を建てたりするために、はやくから古墳がこわされている場合がある。たとえば、和田町で団地をつくるときに、たくさんの古墳をこわしたので、ずいぶん土器がでたという。しかし、今となっては、どれだけの古墳があったのかもわからないし、この図にも古墳があるようにはのっていない。また、これだけ時期がわからない古墳がある以上、今まで古い古墳がないとされてきた地域に、1番古い古墳が見つかるかもしれない。この図は事実と事実ではない面を持ち合わせている。
 結局、この図だけからわかることはほとんどない。この図に、個々の古墳の細かなデータを重ねて、はじめてこの地域の古墳時代の社会が見えてくる。


釣鐘山古墳(つりがねやま-こふん:川合町)

  椋川右岸の標高53mの段丘端部に単独で所在した古墳である。土採りとその後の風水害によって墳丘の半分が削り取られ、石棺が露出して崩落する恐れが生じていた。当時の市には埋蔵文化財保護に対する体制がとれなかったため、昭和48年(1973)三重大学歴史研究会原始古代部会の学生諸氏の自費によって緊急発掘調査がおこなわれた。
 墳丘は本来の地形に高さ4mに盛り上げた長径16mの楕円形の古墳と考えられる。埋葬施設は安山岩の板を組み合わせた石棺の周りに礫を充填している。石棺は底石、蓋石、右側板、両方の小口石は一石、左側板は四石を組み合わせ、蓋石長203cm、内法が165cmある。
 棺内からは須恵器坏身2、蓋坏3、高坏1のほか、鉄刀3、角のみ、鹿角装刀1、鉄鎌1、埋木(埋没した樹木が堆積により圧縮され石炭化したもの)製切子玉5、銀製小玉6、ガラス製小玉2、さらに人骨片が出土している。また、棺外からは鉄鏃29が出土しているが本来は棺内にあったものが古墳の破壊時に流出した可能性がある。須恵器の年代からは6世紀前半の築造と考えられる。椋川(むくがわ)対岸の城山古墳、井田川茶臼山古墳(みどり町)などを中核としたグループの一部となるものであるが、直接これら首長墓に連なるものではなく、また、同じ右岸の西方に所在する柴戸古墳群(栄町・和田町)とも一線を画する古墳である。

【写真12 釣鐘山古墳石棺】

 

【写真13 釣鐘山古墳石棺内部】

【図3 釣鐘山古墳墳丘測量図】

【図4 釣鐘山古墳出土遺物実測図】


このコーナーの最後に・・・

 日本近代考古学の父といえる、エドワード・S・モース(EDWARD・S・MOUSE:1838〜1925)は、1879年に考古学をこう語っている。

【写真14 エドワード・S・モース(EDWARD・S・MOUSE:1838〜1925)】

「人類の過ぎ去った歴史を、地中に埋まった状態で発見される断片的な遺物から復原することはまったくむずかしい。
洞穴や墓地や村のごみため、その他似たような場所で残ったモノだけから生活の歴史を組み立てなければならない」

 その一方で、こうも言っている。

「日本ほど考古学に関心をもつ人が多い国は世界中ほかにない、といってもいいすぎではない。」
E・S・モース 『大森貝塚』(近藤義郎・佐原真編訳 岩波書店 1983年)


 このコーナーのはじめに、古墳時代の亀山について研究が進められているとのべた。実は、まだ何もわかっていないと言ってよいだろう。「モノ」との対話はそう簡単なものではない。
 考古学は、字のごとく「古いこと」を考える学問だ。それは、単に「古代のロマン」を追うことではなく、「モノ」を通して、社会、技術、そして文化とはなにか、ひいては人間とはなにか、を考えることだといえる。「日本人」が、考古学好きなのは、東アジアのかたすみにできた「日本」という国とはなにかを、いつも意識のなかに持ちつづけているからだろう。しかも、これは今も続く課題だ。そう、これはまさに「今」を考えることにほかならない。だが、むつかしく考えることはない。考古学とは謎解きにすぎないし、それが楽しい。

 なお、モースは、明治15年(1882)7月26日から8月10日まで、東京〜京都を旅行し、四日市を経て坂下に宿泊している。
 E・S・モース 『日本その日その日』(石川欣一訳 平凡社 1971年)
 
 【亀山市の主な遺跡(『亀山市史 考古編』)】