1.亀山かめやま鉄道てつどうのはじまり
鉄道てつどうができるまでの人やもの移動手段いどうしゅだんは、みちとおることでした。この地域ちいきでは、東海道とうかいどう伊勢別街道いせべつかいどう大和街道やまとかいどうとよばれるみちがよく利用りようされました。街道かいどうには、宿泊施設しゅくはくしせつ荷物にもつ搬送業務はんそうぎょうむをする施設しせつなどがある宿場しゅくばがあり、人々ひとびとにぎわっていました。しかし、明治めいじねん(1872)に日本にほん最初さいしょ鉄道てつどう開通かいつうし、亀山かめやまでも、明治めいじ23ねん(1890)に鉄道てつどうかれると、ひともの移動いどうは、街道かいどうから鉄道てつどうへとわっていきます。
 このコーナーでは、亀山かめやまでの鉄道てつどう開通かいつうと、それにともなうこの地域ちいきのうつりかわりを紹介しょうかいします。
(1) 鉄道てつどうかれるまえ亀山かめやま

亀山かめやまでは、明治めいじ23ねん(1890)に鉄道てつどう開通かいつうし、ひともの大量輸送たいりょうゆそう時代じだいはじまります。では、それまでの亀山かめやまは、どのようなようすだったのでしょうか。
当時とうじのようすをえがいた浮世絵うきよえで、てみましょう。
[1-1]
1-1:
浮世絵「東海道五十三次之内 関旅籠屋見世之図」(行書東海道)
天保12年(1841)
~天保13年(1842)
館蔵資料
[1-1]
 このは、歌川広重うたがわひろしげが、亀山かめやま東海道とうかいどう風景ふうけいえがいたものです。3つのおおきな荷物にもつはこぶ6にんひとと、そのうしろに、飛脚ひきゃくとよばれる手紙てがみはこひと姿すがたえがかれています。鉄道てつどうくるまがなかったむかしは、あるいたりはしったりして荷物にもつ郵便ゆうびんはこんでいました。
[1-2]
1-2:
浮世絵「東海道五十三次之内 関旅籠屋見世之図」(行書東海道)
天保12年(1841)~
天保13年(1842)
館蔵資料
[1-2]
 この絵も歌川広重うたがわひろしげえがきました。関宿せきしゅく旅籠はたごばれる宿屋やどやまえで、おみせのおばあさんが、おきゃくさんを勧誘かんゆうしています。また、宿泊客しゅくはくきゃくの1は、あしあらっています。そのほかには、旅籠はたごはいって旅人たびびともいます。このようすは、江戸時代えどじだい宿場しゅくばではよくられた光景こうけいです。とく関宿せきしゅくは、東海道とうかいどう伊勢別街道いせべつかいどう分岐点ぶんきてんであったため、おおくの集客しゅうきゃくがあり、とてもにぎわっていました。
[1-3]
1-3:「坂下」の図
江戸時代
個人蔵資料
[1-3]
 これは、鈴鹿峠すずかとうげをはさんだ、坂下さかのした土山つちやま(滋賀県甲賀市土山町)の街道かいどうあらしたです。坂下宿さかのしたしゅくでは、旅人たびびと筆捨山ふですてやまをみながら茶屋ちゃや東屋あずまや休憩きゅうけいしているようすがえがかれています。また、駕籠かごとよばれるものをかつぐひとえがかれ、東海道とうかいどうがにぎわっているようすがつたわってきます。
[1-4]
1-4:
浮世絵「東海名所改正道中記五十 旅人留女 亀山」
明治8年(1875)頃
館蔵資料
[1-4]
 このは、明治初期めいじしょきのとてもにぎわっている亀山宿かめやましゅくのようすをえがいています。そして、江戸時代えどじだいにはなかった人力車じんりきしゃとよばれるあたらしいものや、外国がいこくからはいってきた洋傘ようがさった旅人たびびとえがかれ、あたらしい時代じだいがやってきたことがかんじられます。亀山かめやまでは、このえがかれたやく15年鉄道てつどうかれ、だんだんと、街道かいどうたびから鉄道てつどうたびうつっていきます。

(2) 関西鉄道かんせいてつどう開通かいつう

明治めいじ23ねん(1890)12がつ25にち関西鉄道かんせいてつどう四日市駅よっかいちえき草津駅くさつえきあいだ開通かいつうします。そしてよく24ねん(1891)8月21日には、亀山駅かめやまえき一身田駅いしんでんえきあいだ開通かいつうしました。鉄道てつどうができたことで、この地域ちいきはどのようにうつりかわったのでしょうか。
 この地域ちいき鉄道てつどうえきができるようすを、路線図ろせんず書類しょるい写真しゃしんなどからてみましょう。
亀山市域かめやましいき関西鉄道かんせいてつどう略年表りゃくねんぴょう
月 日 できごと
明治めいじ21ねん
(1888)
がつ1日ついたち 四日市よっかいちにおいて関西鉄道株式会社かんせいてつどうかぶしきがいしゃがはじまる。
がつ 四日市駅よっかいちえき草津駅間くさつえきかん工事こうじをはじめる。
11がつ 加太かぶとトンネル(加太隧道かぶとずいどう)の加太側かぶとがわ入口いりぐちためりをする。
明治めいじ22ねん
(1889)
10がつ19にち 加太かぶとトンネル(加太隧道かぶとずいどう)の貫通式かんつうしきがおこなわれる。
11がつ 加太かぶとトンネル(加太隧道かぶとずいどう)の工事こうじをはじめる。
12がつ15にち 滋賀県側しがけんがわ草津駅くさつえき三雲駅間みくもえきかんがつながる。
明治めいじ23ねん
(1890)
がつ1日ついたち 金場かねばトンネル(金場隧道かねばずいどう)の工事こうじをはじめる。
10がつ2日ふつか 金場かねばトンネル(金場隧道かねばずいどう)が完成かんせい延長えんちょう260m。工事期間こうじきかん63にち
11がつ 坊谷ぼうだにトンネル(坊谷隧道ぼうだにずいどう)が完成かんせい全長ぜんちょう163m。
12がつ 加太かぶとトンネル(加太隧道かぶとずいどう)が完成かんせい全長ぜんちょう930m。
12がつ25にち 四日市駅よっかいちえき草津駅間くさつえきかんがつながり、亀山駅かめやまえき関駅せきえきができる。
四日市駅よっかいちえき柘植駅間つげえきかん運転うんてんをはじめる。
明治めいじ24ねん
(1891)
がつ21にち 亀山駅かめやまえき一身田駅いしんでんえきがつながり、下庄駅しものしょうえきができる。
11がつ3日みっか 亀山駅かめやまえき津駅間つえきかんがつながる。
明治めいじ29ねん
(1896)
がつ21にち 加太駅かぶとえきができる。
明治めいじ37ねん
(1904)
亀山駅構内かめやまえきこうない三重県みえけん物産品ぶっさんひんができる。
明治めいじ40ねん
(1907)
10がつ1日ついたち 鉄道国有法てつどうこくゆうほうにより関西鉄道かんせいてつどう国有こくゆうとなる。
[1-5]
1-5:
東海道鉄道旅行独案内 全
 附 伊勢参宮道中記
明治22年(1889)
飯田良樹氏所蔵史料
[1-5]
 この案内あんないは、明治めいじ22ねん(1889)7がつ東海道とうかいどうせん全線ぜんせん開通かいつうしたあと出版しゅっぱんされたものです。路線図ろせんずをよくてみると、よく23ねん(1890)に開通かいつうする関西鉄道かんせいてつどう四日市駅よっかいちえき草津駅間くさつえきかんもできており、その開通かいつう見越みこして作成さくせいされたものであることがわかります。
 また、記載きさいされた「鐵道乘客之心得てつどうじょうきゃくのこころえ」には、えき英語えいごで「ステーシヨン」、切符きっぷのことを「切手きって」と表記ひょうきしています。
[1-6]
1-6:
訂正再版 新撰三重県地誌
(該当部分)
明治26年(1893)
飯田良樹氏所蔵史料
[1-6]
 このほんは、亀山駅かめやまえき開業かいぎょうする4ヶ月まえ明治めいじ23ねん(1890)7がつ出版しゅっぱんされ、明治めいじ26ねん(1893)に教科書きょうかしょとしてみとめられました。
 この教科書きょうかしょには、ひろ亀山駅かめやまえき構内こうないや、駅舎えきしゃとホームをするための跨線こせんきょう汽車きしゃがホームにはいってくるようすがえがかれています。
 またしたには、「亀山かめやまニハ、関西鉄道かんせいてつどう会社がいしゃノ「ステイシヨン」アリテ、近傍きんぼう第一だいいちさかんナル市街しがいナリ、公園こうえんアリ、亀山城かめやまじょう旧趾きゅうしニシテ、眺望ちょうぼうヨシ、」と、亀山かめやま亀山城かめやまじょうがあることが紹介しょうかいされています。
[1-7]
1-7:
伊勢国鈴鹿郡加太村字市場小黒見間大和街道変更願略図
明治23年(1890)
館蔵関町史編さん資料
[1-7]
加太かぶと鍛冶ヶ坂かじがさかでの鉄道工事てつどうこうじは、線路せんろをつくる場所ばしょ大和街道やまとかいどう一部いちぶかさなることがわかりました。しかし、線路せんろべつ場所ばしょえることはできませんでした。そこで、加太川かぶとがわ北側きたがわにあった大和街道やまとかいどうを、かわ南側みなみがわんぼややまがある場所ばしょへ、かり移動いどうさせることにしました。この略図りゃくずは、そのようすをあらわしています。
 なお、このきたしたになっています。あかせん線路せんろで、そのうえにある薄茶色うすちゃいろせんもと大和街道やまとかいどうです。そして青色あおいろあらわした加太川かぶとがわうえ黄色きいろせんあたらしくつくられた現在げんざい道路どうろです。

参考:猪ノ元橋附近遠景・鈴原橋附近遠景(個人所蔵資料)
[1-8]
1-8:関西鉄道案内
明治時代
館蔵加藤(明)家文書
[1-8]
発行日はっこうびかれていませんが、津駅つえきまでかれていることから、津駅つえきができる明治めいじ24ねん(1891)11がつ以降いこう発行はっこうされたものです。
 また、これによれば、伊勢参いせまいりをするには、までは関西鉄道かんせいてつどう使つかい、からは人力車じんりきしゃ蒸気船じょうきせん通行手段つうこうしゅだんがあることがかれています。
[1-9] 1.28MB
1-9:
関西鉄道株式会社線路及附近鉄道線路一覧略図
明治30年(1897)
坂政明氏提供
[1-9]
 この路線図ろせんずは、関西鉄道会社かんせいてつどうがいしゃ作成さくせいしたもので、関西鉄道かんせいてつどうとその付近ふきん他社たしゃ鉄道てつどう路線ろせんしるしています。これによれば、から伊勢いせへは参宮さんぐう鉄道てつどうができており、また、関西鉄道会社かんせいてつどうがいしゃ自身じしんあらた河原田駅かわらだえき津駅つえきあいだ鉄道てつどうでつなげる計画けいかくがあることがしるされています。ほかには、勢和せいわ鉄道線てつどうせん建設けんせつちゅうであることなど、県内けんない急速きゅうそく鉄道てつどうがつくられていったことがうかがえます。
[1-10]
1-10:
明治時代の亀山駅構内(写真)
明治30年代(1897~1906)
東海旅客鉄道株式会社
亀山駅所蔵資料
[1-10]
写真奥しゃしんおく関駅せきえき方向ほうこうです。左端ひだりはし機関庫きかんこうつっています。
[1-11]
1-11:
関西鉄道45号機関車「早風」(写真)
明治31年(1898)頃
東海旅客鉄道株式会社
亀山駅所蔵資料
[1-11]
亀山駅かめやまえき停車ていしゃしているこの蒸気機関車じょうききかんしゃは、明治めいじ31ねん(1898)せい高速こうそく機関車きかんしゃです。
[1-12]
1-12:
関西鉄道3等客車(写真)
 明治32年(1899)
東海旅客鉄道株式会社
亀山駅所蔵資料
[1-12]
 この客車きゃくしゃは、関西鉄道かんせいてつどう四日市工場よっかいちこうじょうつくられた蒸気機関車じょうききかんしゃ客車きゃくしゃです。
[1-13]
1-13:参宮鉄道客車内(写真)
明治40年(1907)
東海旅客鉄道株式会社
亀山駅所蔵資料
[1-13]
手前てまえが2等車とうしゃ、しきりのこうは3等車とうしゃです。
[1-14]
1-14:
明治25年改正の亀山駅の時刻表と運賃表(写真)
明治25年(1907)
東海旅客鉄道株式会社
亀山駅所蔵資料
[1-14]
 この運賃表うんちんひょうによれば、亀山駅かめやまえき関駅せきえき区間くかん亀山駅かめやまえき下庄駅しものしょうえき区間くかんは、どちらも6せんでした。
[1-15]
1-15:
関西鉄道会社開業前後商況等書上
明治24年(1891)
津市久居ふるさと文学館所蔵
[1-15]
 この書類しょるいは、関西鉄道かんせいてつどう開業かいぎょうによる関宿せきしゅくでの商売しょうばい状況じょうきょうしるしたものです。これによれば、旅人たびびと汽車きしゃ使つかうため、宿泊者しゅくはくしゃわずかになったこと、荷物にもつ運送うんそうは、鉄道てつどうができたことによって関宿せきしゅく経由けいゆせず、鉄道てつどう直行ちょっこうはこばれるので、関宿せきしゅく荷物にもつあつかうことはまれになったことなどがかれています。
 また、明治めいじ22ねん(1889)から24ねん(1891)旅人たびびと宿泊人数しゅくはくにんずう比較ひかくしたひょうでは、24年度ねんどはどのつき宿泊者数しゅくはくしゃすういちじるしくっています。
 このことから、鉄道てつどうができたことは、関宿せきしゅく商売しょうばいをする人達ひとたちにとっては、大打撃だいだげきであったことがうかがえます。
[1-16]
1-16:
亀山駅の駅前風景(写真)
明治40年(1907)頃
館蔵今井家資料
[1-16]
 この写真しゃしんは、明治めいじ40ねん(1907)ごろ亀山駅前かめやまえきまえのようすをうつしたものです。ふる写真しゃしんなのでわかりにくいですが、飲食店いんしょくてんなどがならんでいるようすがわかります。
[1-17]
1-17:亀山停車場前(写真)
明治時代
館蔵企画課移管資料
[1-17]
 この写真しゃしん亀山駅前かめやまえきまえのようすをうつしたものです。おそらく亀山駅かめやまえきができたころ撮影さつえいされたものとおもわれます。1-16の写真しゃしんおなじく、暖簾のれんをたらした店舗てんぽならんでいるようすがうつっています。